縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、平安時代など日本古代史の出来事と検討課題の考察を行う。考古学の成果も取り入れ、事実に基づき、合理的な歴史の再構築を図る。

舎人親王(とねりしんのう, 676年―735年)は奈良時代皇族である。
日本書紀』編纂の最高責任者とされる。「舎人皇子(とねりのみこ)」とも記される。
官位は一品・知太政官事、贈太政大臣。

概要

天武天皇?の第3皇子で、母は天智天皇?の娘の新田部皇女?である。子に大炊(淳仁天皇)、船王?三原王?(御原王)、池田王?貞代王?がいる。
勅によって太安万侶とともに『日本書紀』の編集にあたった。
元正天皇?聖武天皇に皇親として仕え、奈良時代前半の皇親政治の中心として活動した。
『続日本紀』養老4年(720年)5月21日の条に「一品の舎人親王は、勅をうけて 日本紀の編纂に従っていたが、 この度それが完成し、記三十巻と系図一巻を奏上した」と記述される。『日本書紀』の完成を示す。
藤原不比等?の没後は知太政官事として政務に携わり、729年(天平1年)に起きた長屋王の変のときは新田部親王らと王を窮問した結果、王は自尽した。長屋王は舎人親王の甥にあたる。
舎人親王は天平7年11月14日(735年12月6日)に没した。第7子が淳仁天皇になると崇道尽敬皇帝の称号を贈られた。

万葉集

万葉集に3首が残される。117番は舎人娘子(とねりおとめ)に贈った歌である。
  • 117番 「ますらをや 片恋せむと嘆けども 醜のますらを なほ恋ひにけり」
  • 1706番 「ぬば玉の 夜霧ぞ立てる 衣手(ころもで)の 高屋の上に たなびくまでに」
  • 4294番 「あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人や誰」

松尾寺

『日本書紀』編纂のときは舎人親王42歳の厄年であったため、日本書紀の無事完成と厄除けの願をかけて「松尾寺」を建立したと1676年(延宝4年)に作成されたと「松尾寺縁起」に記載される。

東明寺

持統天皇8年(693年)に舎人親王が開基したと伝えられる。持統天皇が眼病に悩んだとき、平癒を祈る子息の舎人親王の夢枕に老翁姿の白鬚明神が現れ、 「霊山に登り霊井の水をすくいて母君の眼を洗うよう」にとのお告げに従い母の眼を洗ったところ、持統天皇の眼は治癒した。その感謝のため舎人親王の勅により、寺が建てられたという。

邸宅跡

舎人親王邸の有力候補地が平城京跡で発掘されたと2023年4月3日報道された。平城京の中心部に近い「左京三条三坊四坪」と呼ばれる区画で、5棟分の建物跡が見つかった奈良時代前半とみられる。。大型建物跡は推定で南北10m以上、東西20.2m。柱穴は一辺1.5m前後。屋根には瓦が使われていた可能性がある。五位以上の貴族の邸宅は1町であったが、左大臣・長屋王など大臣クラスは4町と広い。四町の宅地を班給されたのは三位以上の貴族だけである。軒丸瓦、柱の一部も出土した。

参考文献

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