縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、平安時代など日本古代史の出来事と検討課題の考察を行う。考古学の成果も取り入れ、事実に基づき、合理的な歴史の再構築を図る。

多胡碑(たごひ)は群馬県高崎市にある奈良時代の石碑である。
山ノ上碑多胡碑とともに上野三碑の一つと言われる。

概要

多胡碑は、奈良時代初めの和銅4年(711年)に上野国の14番目の郡として、多胡郡が建郡されたことを記念して建てられた石碑である。建郡に際して、「羊」という渡来人とおもわれる人物が初代の郡長官となったと推定される。上野国分寺跡から「羊」と記された瓦が発掘されている事から、羊氏はこの地方の有力な豪族であったと考えられている。
命令に署名した高位高官として、左中弁正五位、多治比真人、太政官二品穂積親王、左大臣正二位石上麻呂、右大臣正二位藤原不比等が名を連ねる。多胡郡を作ることは『続日本紀』にも登場する。
碑はカギのかかった堂内にあり、ガラス越しに観覧できる。

石碑

碑は方柱形の天引石の切石で、上に笠石が乗る。笠石・碑身・台石から構成される。笠石は幅95センチ・奥行90センチ・中央厚さ27センチ・軒面厚さ15〜17センチで、方形の笠のような形で下部がへこむ。碑身は高さ129センチ・幅69センチ・厚さ62センチの方柱状で上部に低いホゾがあり、この上に笠石が載る。
牛伏砂岩といわれる花崗岩質砂岩を成形し、前面の平らな部分に縦書き6行で80字が丸底彫りされている。台石は第二次大戦後、コンクリート製に造り替えられた。

大意

片岡、緑野、甘楽3郡から300戸をさいて新たに多胡郡を設置せよというもので、建郡の碑である。碑文は6行80文字から成る和文並びの漢文であり、その彫り方は、以前は薬研彫りと考えられていたが、2004年のレーザーによる三次元形状計測の結果、丸底彫りと判明した。書体は丸みを帯びた六朝風の楷書体で古くより名筆として文人墨客に知られており、室町時代の連歌師である宗長や、江戸時代の儒学者である伊藤東涯などの著書にも取り上げられている。18世紀以降に多胡碑の拓本が朝鮮通信使を通して中国に渡り、その書風が評価され、後世の日本の書家にも影響を与えた。

碑文

  • 弁官符上野国片野郡緑野郡甘
  • 良郡并三郡内三百戸郡成給羊
  • 成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
  • 宣左中弁正五位下多治比真人
  • 太政官二品穂積親王左太臣正二
  • 位石上尊右太臣正二位藤原尊

釈読

朝廷の弁官局から命令があり上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくり、羊に支配を任せる。郡の名は多胡郡とすること。和銅四年(711年)三月九日甲寅に命令が伝えられた。左中弁正五位下多治比真人(三宅麻呂)。太政官の二品穂積親王、左太臣正二位石上(麻呂)尊、右太臣正二位藤原(不比等[ふひと])尊。

指定

  • 1954年 特別史跡指定

多胡碑記念館

隣接して多胡碑記念館が建てられる。上野三碑(や日本三古碑の複製・多胡碑の書にかかわる刻石の拓本などを展示する。

アクセス等

  • 名称:多胡碑
  • 所在地:〒370-2107  群馬県高崎市吉井町池1095
  • 交通:吉井駅から徒歩で30分

参考文献

  1. 鬼頭清明(1991)「上野三碑をめぐって」『古代日本金石文の謎』学生社

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

フリーエリア

よろしければランキング投票してください
にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

フリーエリア

PVアクセスランキング にほんブログ村

メンバーのみ編集できます