1872年?(明治6年)の
オーストリア?の
ウィーン?で開催された万国博覧会(会期:1873年5月1日〜11月1日)にフェノロサ兄弟は来場した。明治政府がはじめて正式に参加した万国博覧会であった。フェノロサは9月29日から10月4日まで、博覧会の特設美術館や市内の美術アカデミーに通った。9月30日に「研究対象は美術でなければならない」と研究ノートに書いた<ref name=hotta></ref>。仏像や浮世絵など日本美術に魅了され、「日本では全国民が美的感覚を持ち、庭園の庵や置き物、日常用品、枝に止まる小鳥にも美を見出し、最下層の労働者さえ山水を愛で花を摘む」と書いた、
日本美術の収集と研究を始め、狩野友信、狩野永悳に鑑定法を学んだ。フェノロサを
狩野友信?に紹介したのは、当時、東京帝国大学学生の
宮岡恒次郎?であった。
フェノロサは文部省と交渉して美術取調委員となり、1884年(明治17年)、文部省に入った岡倉天心を日本美術研究の通訳や助手として京都・奈良で古美術の調査を始めた。
法隆寺夢殿〈国宝〉では、寺の僧侶ですら見ることの許されなかった秘仏を、約200 年ぶりに開帳した。現在国宝の
救世観音菩薩立像?であった。古画の模写と鑑定のため日本画家の安藤広近と古美術の専門家柏木貨一郎を伴い、明治政府の書状や命令書を手にしていた。「美術品文化財の最初の正確なリスト」を作るためであった。