概要
1791年(寛政3年)、江戸時代に橘寺の石垣から発見された。大化二年の「大化」年号を記載する現存唯一の金石文である。『帝王編年記』(14世紀後半成立)に碑の全文が収録されている、
碑は道登が橋をかけたとするが、『続日本紀』は道昭とする。『日本霊異記』、『扶桑略記』[3]、『今昔物語集』は道登が架けたとする。しかし、道昭は大化二年には18歳頃であるから、僧侶になっているか分からない頃である。その後に遣唐使の学僧として唐に留学しているから、大化二年の時期の架橋は考えにくい。『続日本紀』によれば、道昭は入唐求法し、帰国後は元興寺に住んでいた。帰国後は社会事業をしたとされており、その事跡と宇治橋架橋とは混同されたと思われる。
意味
浼浼(べんべん)は水量が豊かであることを意味する。横流は孟子に「洪水横流」となり、水が多量に流れていることを示す。「騎を停めて市をなす」は、馬出来た人があまりに流れが速いので、滞留する人が多いことを意味するが、そこに市場があったかもしれない。2行目は橋が掛かって人畜が救われたと語る。「亡」は逃れるという意味であり、亡くなる人も助かる人もいたと解釈する。
地名
「山尻」をやましろと読むのは古い書法である。聖徳太子伝のなかに山尻が登場する。奈良時代や『日本書紀』では「山代」表記で、『続日本紀』では「山背」である。