神功摂政66年に「この年は、晋の武帝の泰初二年である。晋の起居によれば、武帝泰初2年10月に倭の女王は訳を何度もして貢献した(六十六年。是年、晉武帝泰初二年。晉起居注云「武帝泰初二年十月、倭女王遣重譯貢獻。」と書かれる。泰始2年は、西暦で266年である。すると、神功摂政元年は201年となる。
ところが神功摂政66年記事に「百済の枕流王が亡くなった。王子の阿花は年少であったため、父の辰斯が王位を奪って王となった(六十五年、百濟枕流王薨。王子阿花、年少。叔父辰斯、奪立爲王) と書かれる。枕流王は385年11月に在位2年でなくなっている。
ここから、神功摂政元年は西暦321年(=385-65+1)となる。
すなわち、神功摂政元年は201年と321年とで、120年の差が生じる。これが年代的不整合の内容である(倉西裕子(2003))。
このことを最初の指摘したのは、明治期の歴史学者の
那珂通世である。神功紀,応神紀の紀年は両紀に引用された百済史料『百済記』と同じ干支であるが,120年の差があることから,両紀の紀年は120年(干支2運)くりあげられていることを論証した。