諡は大聖和静国師。俗姓は薛(ソル)氏。名は誓幢、新幢。
新羅?の押梁郡(現在の慶尚北道)に生まれ、29歳のとき皇龍寺で出家する。
650年、法相宗の興隆を聞いて義湘とともに入唐を志したが、
高句麗?軍に阻まれ失敗する。661年また義湘と唐に渡ろうとするが、途中で塚(古墳)に宿をとり、髑髏の中の水を飲み、唯心の悟り「心の外に仏法なし、心の外に師を求むべからず」すなわち一切の現象はおのれに一心の変ずるところを得て、入唐を放棄して国に留まった。
小姓居士と称して在俗者のようにふるまいつつ、形式主義を批判する。仏教、とくに華厳思想の宣揚に努めた。
『金剛三昧経』などを王と高僧に講読し,王妃の病気を治したとされる。楽器などを用いて民衆を教化し,感化した。
新羅華厳宗高僧元暁の著作『判比量論』は
光明皇后の蔵書であったが、新羅語による書き入れがなされていたことが明らかとなり、日本の漢文訓読や片仮名の起源が新羅に求められる可能性が高まった。元暁の子薛聡は新羅語による漢文訓読の方法を考案したとされている。
弟子の審祥が日本に華厳宗を伝えたため、東大寺を始めとする南都の諸寺院で元暁が知られた。