昭和49年に松商学園が弘法山を買収し、学校用地造成に先立って発掘調査を開始したところ、これが単なる円墳ではなく、今まで松本平にはないとされてきた
前方後円墳の可能性を考えた。
昭和49年5月から大正大学の斎藤忠教授を団長とする調査が行われた。
埴輪は検出されず、
葺石も明瞭ではなかった。墳丘は
版築の手法が取られていた。墳丘は周囲の土を盛り上げたものである。前方部はかなり狭く小さい。河原石で築かれた石室が現れ、石室上から出土した多量の土器と完存していた副葬品のセットから、古墳は3世紀末(古墳時代初期)に造られたもので、長野県だけでなく東日本で最古(当時)であることが判明した。
埴輪の樹立はなく、葺石もわずかに見られる程度であった。主体部は後方部中央にあり、主軸(前方部と後方部を結ぶ線)とほぼ直角となる。石室内法の長さは5.0m、幅は1.3m。深さは93センチメートルであった。石室内には黒土を入れて堅く締められており、天井石は見当たらなかった。