1928年7月17日、大坂で生まれる。父は高島屋の図案部長であった。
小中学生時代に目にした遺物や遺跡を通じて考古学に目覚めた。学生時代から古墳の発掘と報告書作成に取り組む。旧制中学のころから奈良県の橿原考古学研究所に出入りし、大学予科時代に大量の短甲が出土した大阪府の黒姫山古墳、大学卒業のころに、中国・魏の年号「景初三年」銘の銅鏡が出土した同府の和泉黄金塚古墳の発掘調査などに加わる。壱岐・対馬など各地の遺跡を見て回る。就職後は高等学校教諭の傍ら、新沢千塚(奈良県橿原市)など古墳の発掘に従事する。
東京大学の
井上光貞から『日本の歴史』(中央公論社)の考古学担当の執筆者に抜擢される。1965年8月、急逝した酒詰仲男(東大卒人類学専攻)の後任として同志社大学専任講師となる。方法論は遺構遺物の観察に基づく実証主義に依りつつ、考古学だけでなく文献史学・民俗学・人類学・神話学など様々な関連諸学に精通した幅広い視野で研究を進める。大学に教員として勤務する頃までに携わった発掘調査に大阪府
和泉黄金塚古墳や奈良市大和6号墳、また大阪府
黒姫山古墳など、戦前戦後の行政的遺跡保護体制が極めて不十分な中での手弁当による緊急発掘調査がある。自称する「町人学者」としての人生哲学から、生涯叙勲褒章を受けなかった。宮内庁が管理している陵墓について、同庁による被葬者の指定が必ずしも裏付けられないことを問題提起し、天皇名などではなく所在地名で呼ぶことを提唱した。