1899年(明治32年)土地所有者の吉本源次郎が家屋建設に支障があるとして、大石を動かしたところ、その下から種々の遺物を発見した。その大石から7間北東の地価に煉瓦の小室を作り遺物を収めた。その後、小屋は失われ、遺物は散逸したが、中山博士は大石下を堀り甕棺と推定されるものを発見し、銅鏡、
銅鉾?、細形
銅剣、ガラス小玉、鉢類、壺、合口甕棺、角製管玉、青銅製把頭飾を出土した。土器は素焼き赤色の弥生式土器であった(参考文献2)。
墓壙の規模が5mを超を超える巨大甕棺墓(弥生中期前半=紀元前約150年がみつかった。
被葬者の身分を示す青銅製の飾り「把頭飾」1点も出土した(参考文献3)。