1933年宮城県牡鹿郡渡波町(現石巻市)に生まれる。旧制石巻中学(現宮城県石巻高等学校卒業)。旧制石巻中学で図書館に通い始め、図書館に2冊あった考古学の本を全文丸ごと写して勉強会を開催した。「大学は出ておけ」という父の言葉で関西学院大(兵庫県)に進学する。夏休み前の掲示板に
加茂遺跡?(同県川西市)の発掘調査員募集が張り出され、「参加するだけならいいだろうと調査に加わった」。
「これは
石斧?やないか」。ただの石と思って捨てた石斧の破片を手に声をかけてきたのは、名前だけ知っていた
橿原考古学研究所?初代所長の
末永雅雄氏であった。以後40年にわたって考古学の師匠となる人との出会いであった。その後の10年は発掘調査地を求めて遺跡を転々とする日々を送る。定職に就こうとしない石野さんを見かね、関西学院大学の恩師で考古学者の武藤誠氏は、兵庫県西宮市にあった私立高校の校長と交渉し、日本史の教師のポストを得る。高校教師の定職をなげうって、昭和40年に飛び込んだのが、田能遺跡(兵庫県尼崎市)の発掘調査であった。関西学院大学文学部卒業。関西大学大学院修了後、
兵庫県教育委員会の文化財審議委員をしていた恩師の武藤誠・関西学院大教授が、兵庫県で発掘調査の臨時職員を3人探していると教えてくれたため、兵庫県教育委員会に入る。
4年目に、兵庫県の考古学専門職員第1号として正規職員になった。その翌年に常勤職員の募集があった奈良県立橿原考古学研究所に移る。「上司には、せっかく苦労して入れた人間をよそに出すわけにいかないと怒られましたが、どうしても奈良で調査をしたかったんです」と語る。
当時の橿考研は、
末永雅雄所長の下、
網干善教?さん、伊達宗泰さん、
森浩一さんらが出入りしていた。2年目に纒向遺跡の発掘調査に携わったのをきっかけに、纒向を中心とする考古学研究をライフワークとする。
その後、1971年(昭和46年)より奈良県桜井市の纒向遺跡の発掘調査に携わる。纒向遺跡出土土師器の分類によって纒向編年を行う。纒向遺跡が3世紀の都市的な遺跡であることを発見した。
奈良県立橿原考古学研究所部長、同研究所副所長兼附属博物館館長、徳島文理大学教授、
香芝市二上山博物館館長(初代館長)、
兵庫県立考古博物館館長(初代館長)などを歴任する。