1978年に大韓民国忠清北道中原郡(現在の忠州市。1995年改称)中央塔面龍田里で発見された碑石
忠州高句麗雨は1979年2月末、、檀国大学博物館学術調査団によって発見された。
発見された当時の行政区域は中原郡でああったため中原高句麗費と命名された。その後、中原郡が忠州市に統合されたため、韓国では現在、忠州高麗雨費と呼ぶ。
当時は文字のない「白碑」と考えられていた。ところが拓本をとったところ文字があらわれ、学術研究の末に高句麗碑であることが確認された。
磨耗が激しい後面及び右面は判読不能である。
前面計391字分のうち,約244字が判読されている。右側面は7字分が判読されている。
2000年の精密調査により裏面で一部の文字の痕跡を確認した。四面碑であったとされている。
広開土王碑?は純中国式漢文で書かれているのに対し、中原高句麗碑は征服地の新羅の民に読ませるため、新羅語の制約を受けた表記法になっている。