729年(神亀6年)2月10日、左京の人従七位下漆部造君足(ぬかりべのみやつこきみたり)と無位中臣宮処連東人(なかとみのみやところのあずまびと)が朝廷にかけこんで、当時の中央政治の最高地位にある左大臣・長屋王が密かに「左道」を学び、国家を傾けようと図っている(「称下左大臣正二位長屋王私学左道、欲上傾国家」)と訴えた(
続日本紀?‐天平元年二月辛未)。その夜式部卿
藤原宇合?を長官とした六衛府の兵が長屋王の邸宅を取り囲んだ。翌日の2月11日、舎人親王、
新田部親王?・多治比池守・
藤原武智麻呂?らを派遣し、長屋王を糾問したとされるが、そのときの具体的なやりとりは伝わっていない。翌2月12日、王に命じて自殺させた。
王の室吉備内親王と皇子である従四位下の膳夫王・無位の桑田王・葛木王・鉤取王らは自刃し、97人が取り調べを受け、外従五位下の上毛野朝臣宿奈麻呂ら7人は、長屋王との交流が深かったことを理由に流罪に処せられた。2月13日、使者を派遣して長屋王および吉備内親王の屍体を生馬山に葬った。聖武天皇は勅を出し「吉備内親王には罪はない。喪葬令の例に準えて送葬せよ。」と伝える。告発者の漆部君足と中臣宮処東人に外従五位下を授け、封戸30戸、田10町を授けた。