1921年(大正10)年11月26日、大阪府大阪市 に生まれる。父は在野の考古学者として梵鐘研究を開拓した坪井良平である。1934年4月、大阪大倉商業学校に入学。1941年、京都帝国大学文学部に入学した。1943年に学徒動員により兵役に従事し、台湾に送られた。台湾では台北帝国大学医学部の人類学者である金関丈夫と交流を持った。1946年3月に復員して復学し、1948年卒業。1949年に京都大学大学院に進学する。1950年から平安中学校・平安高等学校教諭などを経て、1955年に
京都国立博物館に採用された。同年、奈良国立文化財研究所(現
奈良文化財研究所)に転出し、平城宮跡(奈良市)などで始まった発掘調査に情熱を傾け、写真測量や遺物の保存処理などの新技術を導入した。平城宮跡の調査では、3m四方の小地区を基本に、アルファペットと数字の組み合わせにより調査地点を表示する方法を考案する等、大規模遺跡の調査方法と記録方法を確立した。1977年から奈良国立文化財研究所長となり、1986年に奈良国立文化財研究所を退官。1986年に財団法人大阪文化財センター理事長に就任、2000年(平成12年)に財団法人元興寺文化財研究所所長就任を経て、2013年以降は公益財団法人元興寺文化財研究所顧問を務めた。
2016年5月7日、急性心不全により死去。94歳没