1971年長崎県教育委員会の委嘱で上対馬町教育委員会・長崎県教育委員会・別府大学・長崎大学・九州大学による調査が行われた。第1号石棺はすでに大部分が消滅していた。
第2号石棺は箱式石棺で厚い砂岩板石で築いている。内法で長さ1.5m、北幅0.45m、南幅03mである。
第3号石棺は、砂岩の板石材を多用し、両側壁に銅釧7(左腕4、右腕3)のほか、広鋒
銅鉾?6が分けて置かれ、別に頭部に土器1、多数の
ガラス製小玉?、
管玉が副葬されており広鋒銅鉾は時期確定の資料となった。広形銅矛が弥生後期前半には出現していたこと、対馬では広形銅矛を副葬する場合もあったこと、さらに弥生土器と朝鮮半島系土器との年代比較が可能になったことなど、注目すべき重要な副葬品である。敷石を配して整美な形態をとる。
第4号石棺は、最高所にある
箱式石棺?である。稜線に直交し、内法の長さ1.95m、幅0.45mである。