日本書記?では「日本」国号の制定については何も語っていない。そこで中国・朝鮮史料に依拠することになる。
歴史的に史料に最も早く「日本」が登場するのは、『
三国史記』
新羅本紀?の
698年?(孝昭王7年)3月条である。
日本国使至る。王崇礼殿に引見す。
この記事に対応するのは文武天皇?二年であるが、続日本紀?には何も書かれていない。しかし、697年(文武天皇元年)に新羅使が来朝しているので、その返礼のため新羅に使いを派遣したと思われる。
次に
727年?(神亀4年)の
渤海?国使の国書を日本書記が引用する個所に「日本」が現れる。
伏して惟みれば大王天朝命を受けて、日本、基を開き、奕葉光を重ねて本枝百世なり。
813年?(弘仁4年)成立の『
日本書記私記?』甲本(『弘仁私記』序)に、
日本国は、大東より東、万余里を去る、日は東方に出づ、扶桑を昇る、故に日本という。
と「日本」国号の由来を説明している。
『
善隣国宝記?』は唐録を引用して、次のように記載する。
天武天皇七年
『唐録』に曰く、則天の長安三年、日本国其の大臣朝臣真人を遣わし、来りて宝物を貢す。
因りていう。其の国日の出ずる所に近し。故に号して日本国という。
なお原文の天武天皇は文武天皇の誤りである。則天武后の長安三年は日本の大宝三年であるから、文武天皇七年である。
そのほか、続日本紀に粟田真人の帰国報告が掲載されており、唐から「何処の使人ぞ」と問われて、「日本国の使なり」と答えた。唐は「海の東に大倭国あり。これを君子国という。人民豊楽にして、礼儀敦く行わると聞く。今使人を看るに、儀容太だ浄し。豈信ならずや」と述べた。つまり、唐では遣唐使により初めて倭国が日本国と変わったと認識した。粟田真人が礼儀正しい人物であるから、その言葉を信用すると言ったのである。
結論的に、小林敏男は天武天皇10年3月の正史編纂にあたり公式に決定され、623年(天武天皇10年)の「浄御原令」で法的に公認されたと主張する(参考文献3)。さらに小林敏男は日本側での公式制定後、遣唐使の派遣に伴う則天武后の承認により日本国への改号は公式のものとなり、国際的に認知されたと述べている(参考文献3)。