遺跡は,出土した土器や木簡などから7世紀後半から8世紀初頭のものと考えられている。谷のほぼ中央に設けられた東西塀を境に北地区・南地区に区分される。北地区には石敷井戸,石組方形池,導水路,官衙風の建物などが検出されたほか,多量の木簡も出土した。遺構・遺物の性格から工房を管理する施設が置かれた地区と判断される。
溝の腐植土層には木簡や削屑が大量に含まれており、天皇木簡・寺名木簡などを含む
木簡など約3400点を出土した。紀年したものとしては、天武五年・六年(676年・677年)や天智九年(670年)を記した木簡がある。鋳造関係としては,日本最古の銅銭である
富本銭?のほか,銅鏡(海獣葡萄鏡),板菩薩,ガラス玉などを生産し,未成品,失敗品,坩堝などの鋳銅用品が炭や灰とともに大量に発見された。また大量の富本銭が見つかった。出土した富本銭は平均直径24・4ミリ、重さ4・6グラム。