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古事記』には、「御陵在川内恵我之裳伏岡也」と書かれる。。「恵我(ゑが)」の領域は、現在の石川の流域の西側から東徐川流域にかけての藤井寺市、羽曳野市の比較的広い領域と考えられている。『
日本書紀』には、「応神天皇陵」に関する直接的な記載はみられない。雄略天皇九年[西暦四六五年に相当]秋七月の条の中で、有名な「埴輪馬はにま伝承」の一節に、河内国言として「蓬蔂丘の誉田陵」という陵名が記されている。
『延喜式』(西暦九二七年編纂)巻二十一諸陵寮には、「恵我藻伏崗陵、在河内国志紀郡、兆域東西五町南北五町、陵戸二烟、守戸三烟」と書かれ、『扶桑略記』には「高五丈、方五町」と書かれ、一町は約109mなので、墓域は約545m×545m相当とみなしていることになる。現在、外濠を含めると、南北は五町三七間ある。