春成秀爾によると「畿内では墓から石鏃や剣が刺さった例が出るが、すべて畿内の武器が畿内の人間に刺さっている」「九州地方で同じように鉄の矢じりや
銅剣の先、あるいは
銅鏃?が刺さった例があるが、これも九州の武器が九州の人間に刺さっている」(参考文献1,p.54)。ゆえに弥生の戦乱は局地戦であって九州あるいは畿内の集団間の闘争と評価できるという。大規模な九州対畿内の戦いの証拠はないとする。この時代ではまだ全国的な戦さをする動員力は政権になかったと解釈されている。
魏志倭人伝に
卑弥呼が共立されたという記事があるが、これは各地地域の話し合いにより、首長に選出されたという意味に解釈したい。弥生時代の倭の国はそれぞれ村という規模である。