概要
京都東寺の坊官・蜷川子賢の長男として京都八条大宮に生まれる。幼名与三郎。明治2年5月、太政官制度調査掛となる。7月制度局調査係を拝命。同月18日、権少史。9月29日少史となる。1871年(明治4年)外務省の外務大録として編輯課付となる。1872年、文部省博物局御用兼務を兼務して、八等出仕。同年11月、御用書類下調掛。
明治4年7月・8月には「町田久成、内田正雄らと常設の博物館を建議するも、時期尚早とされた。9月田中芳男と図り、九段坂上招魂社で小博覧会を開き、大学南校の博物標本、理科機械などを陳列した。」「博物館を常設にする上申を上げて認められ、東京博物館として実現した。」
明治5年、近畿地方の社寺宝物検査に従事した。その際正倉院宝物調査の記録を残した。壬申検査は、文部省から派遣された町田久成を総責任者として、内田正雄、蜷川式胤らの太政官職員、町田らが自費で随行させた絵師・柏木貨一郎や写真師・横山松三郎らとともにと宝物の記録を作成した。1877年1月、病を理由に退職し、1882年(明治15年)8月21日、没した。享年47歳。
宝物盗難
「壬申検査古器物目録」は東京国立博物館に原本が所蔵されている。記録では次があった。
紅牙撥鏤尺8枚
紺牙撥鏤尺2枚(緑も青も区別が明確ではない)
白牙尺2枚
未造了白牙尺2枚
染牙撥鏤尺1枚(色不明)
牙尺4枚
白木尺1枚
水牛尺1枚
明治15年にも正倉院の御物が調査され、その時の公式目録である「正倉院棚別目録」には
紅牙撥鏤尺6枚(2枚減)
緑(紺)牙撥鏤尺2枚
白牙尺4枚(未造了のものと牙尺を含めて8枚から4枚減)
染牙撥鏤尺0枚(1枚減)
とあり、6枚が失われていた。
明治5年、町田久成を団長とする全国社寺調査団が正倉院を調査した。蜷川式胤は1875年(明治8年)の奈良博覧会のために、再び正倉院へ出張した折、蜷川式胤は紅牙撥鏤尺2枚、緑牙撥鏤尺1枚、白牙尺4枚の合計7枚を無断で持ち出し、自宅の蔵に隠したとされる。蜷川式胤の死後の売立て目録に正倉院の宝物が見つかり、しかも2000年には蜷川家の人物から「蜷川家の蔵に撥鏤尺があり、正倉院にお返ししたい」と申し出があったという。
蜷川式胤は、明治15年8月にコレラで急死したとされるが、これは正倉院の宝物が再調査された年であり、撥鏤尺が紛失したことが判明している。明治15年の調査で宝物の亡失の事実が知られ、その責任をとって蜷川は自殺し、町田は仏門に入ったと由水常雄は考えている。