縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、平安時代など日本古代史の出来事と検討課題の考察を行う。考古学の成果も取り入れ、事実に基づき、合理的な歴史の再構築を図る。

岡倉天心(おかくらてんしん,1863年-1913年)は明治時代において日本美術の革新に貢献した学者、美術指導者・思想家である。海外では『The Book of Tea(茶の本)』の著者として知られる。本名は岡倉覚三。幼名は岡倉角蔵。

概要

出生

幕末の1863年(文久2年)、岡倉覚右衛門(岡倉勘右衛門の説もある、通称は善右衛門・金右衛門・全右衛門)、母岡倉この(旧姓野畑)の次男として横浜本町甫丁目に生まれた。父は福井藩士で藩命により横浜で貿易商(生糸の輸出)を営んでいた(屋号「石川屋」)(参考文献1)。なお巣鴨の染井霊園内にある岡倉家の墓には、父は岡倉勘右衛門と記されている。父は1896年(明治29年)7月9日、没年77歳、母このは明治 3年4月3日(1870)没。後妻の静明治32年(1899)1月9日没。生糸を扱う貿易商店・石川屋は1860年(安政7年)に開店した。
岡倉天心は貿易商店・石川屋店を訪れる外国人客から幼少時より英語に慣れ親しんでいた。

教育

1869年(明治2年)、8歳でアメリカ人宣教師ジェイムス・バラ―(James Hamilton Ballagh)の英語私塾で英語を学ぶ。この私塾が英学塾高島学校になると、ジェイムス・バラ―の弟のジョン・バラ―に英語を学ぶ。寺内正毅、本野一郎、宮部金吾、星亨らも共に学んだ。1871年(明治4年)、父に伴われて川崎大師に参詣したとき、東京府と神奈川県界に建つ標示杭を示されて読んでみろと言われたが一字も解することはできなかった。これを恥じた天心は国語の学習をさせてくれるよう父に迫り、菩提寺長命寺の玄導和尚に託されて、漢籍を学ぶことになった。『大学』『論語』『中庸』『孟子』を学んだ、
1873年(明治6年)、父は石川屋をたたみ、日本橋蛎殻町に転居し、旅館を始めた。1873(明治6)年、官立東京外国語学校(現東京外国語大学)に入学する。1875年(明治8年)、東京開成学校に入学し、1877年(明治10年)、同校が東京大学と改称されるに伴い文学部に籍を移した。同期には文学部に井上哲次郎、牧野伸顕、医学部に森林太郎がいた。
1878年(明治11年)東京大学文化大学3年在学中に、来日した米国人教師フェノロサに出会う。フェノロサからはを学んだ。また同時に漢詩を森春濤、奥原晴湖に文人画、琴を加藤桜老に習う。美術・文芸への興味はこの頃から抱いた。フェノロサは、英語に堪能な天心を通訳とし、フェノロサの美術品収集を手伝う。天心もフェノロサの研究対象に興味をもつ。
1879年(明治12年)、17歳で大岡元子(基子)と結婚する(参考文献1,p270)。大岡元子は大岡定雄の娘で、赤坂の茶会(茶店とも)で天心と知り合い、岡倉旅館で働きはじめ、1879年に結婚した(参考文献2)。政治学・理財学を学び、英文により「国家論」を東京大学の卒業論文としたが、妻の元子に焼かれてしまい、急遽「美術論」を提出した。

美術行政

1880年(明治13年)7月に東京大学を卒業して、9月フェノロサの通訳として、奈良・京都の古社寺を回る。10月から文部省専門学務局に勤務し、音楽取調係は兼務となった。1882年5月、フェノロサは龍池会に招かれ、「美術真説」を公演した。
1883年(明治16年)、フェノロサの通訳として、狩野芳崖宅を訪問。
1884年(明治17年)、フェノロサ、狩野鉄哉らと古寺調査。法隆寺夢殿の救世観音を開扉させた。「鑑画会」を設立。九鬼隆一、狩野芳崖、橋本雅邦らが参加。
1885年(明治18年)、牛込筑土八幡の元旗本屋敷に転居。
1886年(明治19年)、フェノロサ、4月、芳崖らとともに奈良・大阪で古美術調査。「天心」の号を用いる。10月、フェノロサと欧米視察。
1887年(明治20年)10月、帰国。東京美術学校幹事となる。開校準備。
1889年(明治22年)、東京美術学校第一期生として横山大観、下村寒山ら入学。5月、帝国博物館理事。美術部長に就任。
1890年(明治23年)7月、フェノロサは東京美術学校雇を辞任、帰国する。9月、東京美術学校で「日本美術史」「泰西美術史」を講義開始。10月、27歳で東京美術学校校長に就任。
1893年(明治26年)、宮内省の命令で、中国へ第1回目の古美術調査旅行。12月帰国。
1898年(明治31年)「築地警醒会」の名で岡倉を誹謗した怪文書がばらまかれる。
「美術学校騒動」で東京美術学校校長、帝国博物館理事・美術部長、パリ万国博覧会臨時博覧会評議員を辞職。10月、谷中に日本美術院を開院。
1903年(明治36年)、五浦に土地を購入。
1904年(明治37年)、4月、ボストン美術館のエキスパートとなる。11月『日本の覚醒』をニューヨークのセンチュリー社より刊行する。12月『東洋の理想』をニューヨークのダットン社より刊行する。
1905年(明治38年)、美術品収集のため京都、奈良旅行。ボストン美術館、中国・日本美術部の顧問就任。
1906年(明治39年)、『茶の本』をニューヨーク、フォックス・ダフィールド社から刊行する。
1910年(明治43年)、4月から6月、東京帝国大学で「泰東巧芸史」を講義。5月、某トン美術館中国・日本美術部長を任命される。
1912年(明治45年)、11月から5回目のボストン美術館勤務。
1913年(大正2年)腎臓炎が再発、9月2日、新潟県赤倉温泉の山荘で永眠、同日、従四位・勲五等双光旭日章を贈られる。

Wikipedia日本語版の誤り

「岡倉天心」来歴の項に「1878年(明治11年)基子と結婚。」とあるが、誤りである。家族の項には「1879年に結婚した」と書かれている。

参考文献

  1. 清水多吉(2013)『岡倉天心』中央公論新社
  2. 新井恵美子(2004)『岡倉天心物語』神奈川新聞社

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