'邪馬台国(やまたいこく)弥生時代から古墳時代にかけて『魏志倭人伝』に記載される倭国の中の女王国である。
古田武彦は邪馬台国ではなく「邪馬一(壹)国」が正しいと主張する(古田武彦(1977))。確かに魏志倭人伝に「南至邪馬壹國 女王之所都」と書かれている。理由を次の様にまとめている(古田武彦(1992)。
4世紀初頭から10世紀末までに執筆された諸本には、5世紀前半に書かれた『後漢書』、636年に完成した『梁書』諸夷伝などがある(石原道博編訳(1985))。石原道博編訳(1985)は『後漢書』の影印を掲載する。
すなわち『三国志』の南宋本より古い版本がすべて「臺」(台)になっているから、南宋本が印刷時に間違ったと考える方が合理的である。
したがって結論として「邪馬一(壹)国」が正しいとする説は成り立たないと考える。
- 現在残る『三国志』の版本はすべて「邪馬一(壹)国」である。
- 三世紀の魏晋朝で「臺」は魏朝の王宮またはそれに準ずる王宮にしか使われない「至高の文字」である。
- 「臺」(台)と「壹」(一)の字形は似ていない。
- 「邪馬壹国」表記に裴松之は何も注釈を残していない。
- 「邪馬壹国」は11世紀初頭の北宋版で誤刻された表記である。
- 4世紀初頭から10世紀末までに執筆された諸本がすべて邪馬臺国となっている。
- 983年に成立した『太平御覧』が引用する『魏志』でも臺となっている。
- 『三国志』の最古の版本は紹興年間(1131-1162)のもので、これが現存する(南宋本)。宮内庁に現存する版本は巻4以降が残されている。しかしこれより古い写本は存在しない。
4世紀初頭から10世紀末までに執筆された諸本には、5世紀前半に書かれた『後漢書』、636年に完成した『梁書』諸夷伝などがある(石原道博編訳(1985))。石原道博編訳(1985)は『後漢書』の影印を掲載する。
すなわち『三国志』の南宋本より古い版本がすべて「臺」(台)になっているから、南宋本が印刷時に間違ったと考える方が合理的である。
したがって結論として「邪馬一(壹)国」が正しいとする説は成り立たないと考える。
邪馬台国の所在地に関しては古くから論争がある。日本古代国家の起源や大和政権の起源を考えるうえで、その位置は重要である。「魏志倭人伝」の行程の距離と方角をそのまま読むと、海の中になってしまう。そこで所在地候補には多数が挙げられているが、有力とされる候補地は九州説と畿内説とがある。両説の得失を比較してみる。
全体的には考古学的証拠から畿内説が有利と考える。九州説では、邪馬台国の候補となる遺跡や古墳を挙げることができない。
九州説に有利な考古学的根拠は鉄器の出土数が大和を圧倒しているということであるが、これについて大塚初重は3点の検討課題を挙げる。第一に九州では緊急の墳墓調査が日本海沿岸で行われているが、大和では墳丘墓の発掘があまり行われていないこと、第二に土壌の性質である。シルト状の粘土質の土壌と、北部九州のような花崗岩地質の土壌とでは鉄器の遺物の保存が全く異なる(大塚初重(2021),p.94-96)。第三に大阪湾湾岸の遺跡からは鉄の遺物の出土がかなり多い。鉄が残りにくいという土壌を考慮すると、鉄器の出土数で邪馬台国近畿説は成り立たないという主張は慎重にする必要がある。
比較項目 | 畿内説 | 九州説 | 備考 |
距離 | 有利 | 不利 | 放射式説あり |
方位 | 不利 | 有利 | 伊都国の南とされる |
遺跡 | 有利(纒向遺跡) | 不利(該当候補なし) | |
古墳 | 有利(箸墓古墳) | 不利(該当候補なし) | |
規模 | 有利 | 不利 | 邪馬台国7万余戸 |
考古学的証拠 | 有利 | 不利 |
全体的には考古学的証拠から畿内説が有利と考える。九州説では、邪馬台国の候補となる遺跡や古墳を挙げることができない。
- 九州説
九州説に有利な考古学的根拠は鉄器の出土数が大和を圧倒しているということであるが、これについて大塚初重は3点の検討課題を挙げる。第一に九州では緊急の墳墓調査が日本海沿岸で行われているが、大和では墳丘墓の発掘があまり行われていないこと、第二に土壌の性質である。シルト状の粘土質の土壌と、北部九州のような花崗岩地質の土壌とでは鉄器の遺物の保存が全く異なる(大塚初重(2021),p.94-96)。第三に大阪湾湾岸の遺跡からは鉄の遺物の出土がかなり多い。鉄が残りにくいという土壌を考慮すると、鉄器の出土数で邪馬台国近畿説は成り立たないという主張は慎重にする必要がある。
- 近畿説
帯方郡から邪馬台国への行程記事では帯方郡から狗邪韓国を経てから1000余里を渡海して対馬国に至り、また南へ千余里渡海して一大国に至る。さらに千余里渡海して末盧国に至る。そこから東南へ五百里陸行して伊都国に至り、また東南の奴国へ百里、東行して不弥国に百里、南の投馬国へは水行二十日、南の邪馬台国へ水行十日、陸行一月で到達すると書かれる。各国を否定するにはそれぞれ3世紀代の遺跡と対応させる必要がある。以下に各国を遺跡・王墓と対応させる。
- 遺跡との対応
国名 | 集落遺跡 | 王墓 | 現在の地名 |
狗邪韓国 | 金海貝塚 | 大成洞古墳? | 慶尚南道・金海市 |
対馬国 | 山辺遺跡?,小姓島遺跡?,三根遺跡? | 対馬島 | |
一支国(一大国) | 原の辻遺跡 | 壱岐島 | |
末盧国 | 菜畑遺跡,桜馬場遺跡? | 唐津市 | |
伊都国 | 平原遺跡 | 三雲・井原遺跡 | 糸島市 |
奴国 | 須玖岡本遺跡,那珂遺跡群 | 那珂八幡古墳 | 福岡県春日市 |
不弥国 | 未定 | ||
投馬国(近畿説) | 上東遺跡 | 楯築遺跡(弥生墳丘墓)/ | 倉敷市 |
邪馬台国(近畿説) | 纒向遺跡(有力候補) | 箸墓古墳(有力候補) | 桜井市 |
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