縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、平安時代など日本古代史の出来事と検討課題の考察を行う。考古学の成果も取り入れ、事実に基づき、合理的な歴史の再構築を図る。

'邪馬台国(やまたいこく)弥生時代から古墳時代にかけて『魏志倭人伝』に記載される倭国の中の女王国である。

概要

邪馬台国は2世紀から3世紀にかけて倭国にあったとされる国である。魏志倭人伝によれば、女王卑弥呼が邪馬台国を都としていた。

女王国と邪馬台国は同一か

魏志倭人伝に対馬国一支国(壱岐国)、伊都国末盧国はすべて女王国に従うとされる(「皆統屬女王國」)。この表現では投馬国不弥国は女王国に従っていないとも読める。しかし翰苑が引用する『魏略』逸文では伊都国の後に、「其の国王は皆女王に属する(其国王皆属女王也)」と記載する(石原道博編訳(1985))。すなわちオリジナルの『三国志』は対馬国一支国(壱岐国)、伊都国末盧国伊都国の全部が女王に従うと書かれていたと推察される。これらの文脈からすれば邪馬台国は女王に統治されているので、女王国と邪馬台国は同一であると解釈できる。

邪馬台国か邪馬一国か

古田武彦は邪馬台国ではなく「邪馬一(壹)国」が正しいと主張する(古田武彦(1977))。確かに魏志倭人伝に「南至邪馬壹國 女王之所都」と書かれている。理由を次の様にまとめている(古田武彦(1992)。
  1. 現在残る『三国志』の版本はすべて「邪馬一(壹)国」である。
  2. 三世紀の魏晋朝で「臺」は魏朝の王宮またはそれに準ずる王宮にしか使われない「至高の文字」である。
  3. 「臺」(台)と「壹」(一)の字形は似ていない。
  4. 「邪馬壹国」表記に裴松之は何も注釈を残していない。
これに対して山尾幸久は「邪馬臺国(邪馬台国)」の表記が正しいとする(山尾幸久(1986))。その理由は次の通りである。
  1. 「邪馬壹国」は11世紀初頭の北宋版で誤刻された表記である。
  2. 4世紀初頭から10世紀末までに執筆された諸本がすべて邪馬臺国となっている。
  3. 983年に成立した『太平御覧』が引用する『魏志』でも臺となっている。
  4. 『三国志』の最古の版本は紹興年間(1131-1162)のもので、これが現存する(南宋本)。宮内庁に現存する版本は巻4以降が残されている。しかしこれより古い写本は存在しない。
残されている刊行本は南宋本を踏襲したものである。
4世紀初頭から10世紀末までに執筆された諸本には、5世紀前半に書かれた『後漢書』、636年に完成した『梁書』諸夷伝などがある(石原道博編訳(1985))。石原道博編訳(1985)は『後漢書』の影印を掲載する。
すなわち『三国志』の南宋本より古い版本がすべて「臺」(台)になっているから、南宋本が印刷時に間違ったと考える方が合理的である。
したがって結論として「邪馬一(壹)国」が正しいとする説は成り立たないと考える。

所在地論争

邪馬台国の所在地に関しては古くから論争がある。日本古代国家の起源や大和政権の起源を考えるうえで、その位置は重要である。「魏志倭人伝」の行程の距離と方角をそのまま読むと、海の中になってしまう。そこで所在地候補には多数が挙げられているが、有力とされる候補地は九州説と畿内説とがある。両説の得失を比較してみる。
比較項目畿内説九州説備考
距離有利不利放射式説あり
方位不利有利伊都国の南とされる
遺跡有利(纒向遺跡)不利(該当候補なし)
古墳有利(箸墓古墳)不利(該当候補なし)
規模有利不利邪馬台国7万余戸
考古学的証拠有利不利

全体的には考古学的証拠から畿内説が有利と考える。九州説では、邪馬台国の候補となる遺跡や古墳を挙げることができない。
  • 九州説
大塚初重は「邪馬台国九州説の一番の弱点は、これといった卑弥呼の墓の候補は九州内で見当たらないことであろう」と述べる(大塚初重(2021),p.103)。かっては卑弥呼の墓の候補として平原王墓( 平原遺跡)を考える研究者がいたが、現在はいないようである。
九州説に有利な考古学的根拠は鉄器の出土数が大和を圧倒しているということであるが、これについて大塚初重は3点の検討課題を挙げる。第一に九州では緊急の墳墓調査が日本海沿岸で行われているが、大和では墳丘墓の発掘があまり行われていないこと、第二に土壌の性質である。シルト状の粘土質の土壌と、北部九州のような花崗岩地質の土壌とでは鉄器の遺物の保存が全く異なる(大塚初重(2021),p.94-96)。第三に大阪湾湾岸の遺跡からは鉄の遺物の出土がかなり多い。鉄が残りにくいという土壌を考慮すると、鉄器の出土数で邪馬台国近畿説は成り立たないという主張は慎重にする必要がある。
  • 近畿説
纏向遺跡には列島の各地から人とモノが集まっている。九州の土器はほとんどない。土器の集中と移動は邪馬台国と関係があるとみてよい。邪馬台国の時代は九州より畿内が中心となっている。纏向で発見された宮殿と思われる遺構が庄内3式期のものとすれば、卑弥呼の時代と一致する。方位を一致させている建物の計画性や柵に注目される(大塚初重(2021),p.173-176)。纏向に土器の移動と集中がみられることは邪馬台国の条件を備えている。

里程と距離の検討

帯方郡から邪馬台国への行程記事では帯方郡から狗邪韓国を経てから1000余里を渡海して対馬国に至り、また南へ千余里渡海して一大国に至る。さらに千余里渡海して末盧国に至る。そこから東南へ五百里陸行して伊都国に至り、また東南の奴国へ百里、東行して不弥国に百里、南の投馬国へは水行二十日、南の邪馬台国へ水行十日、陸行一月で到達すると書かれる。各国を否定するにはそれぞれ3世紀代の遺跡と対応させる必要がある。以下に各国を遺跡・王墓と対応させる。
  • 遺跡との対応
国名集落遺跡王墓現在の地名
狗邪韓国金海貝塚大成洞古墳?慶尚南道・金海市
対馬国山辺遺跡?,小姓島遺跡?,三根遺跡?対馬島
一支国(一大国)原の辻遺跡壱岐島
末盧国菜畑遺跡,桜馬場遺跡?唐津市
伊都国平原遺跡三雲・井原遺跡糸島市
奴国須玖岡本遺跡,那珂遺跡群那珂八幡古墳福岡県春日市
不弥国未定
投馬国(近畿説)上東遺跡楯築遺跡(弥生墳丘墓)/倉敷市
邪馬台国(近畿説)纒向遺跡(有力候補)箸墓古墳(有力候補)桜井市

参考文献

  1. 古田武彦(2014)「筑後国の風土記にみえる荒ぶる神をおさめた女王か?」歴史読本、KADOKAWA
  2. 古田武彦・谷本茂(1994)は『古代史のゆがみを正す』新泉社
  3. 古田武彦(1992)『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞
  4. 古田武彦(1977)「邪馬台国九州説10の知識」『歴史読本』新人物往来社,昭和52年8月号
  5. 山尾幸久(1986)『魏志倭人伝』講談社
  6. 藪田嘉一郎 編訳注(1969)『中国古尺集説』綜芸舎
  7. 石原道博編訳(1985)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝: 中国正史日本伝 1』岩波書店
  8. 大塚初重(2021)『邪馬台国をとらえなおす』吉川弘文館

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