縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、平安時代など日本古代史の出来事と検討課題の考察を行う。考古学の成果も取り入れ、事実に基づき、合理的な歴史の再構築を図る。

卑弥呼(ひみこ、ひめこ,Himiko)は弥生時代の倭国(日本)の女王である。当時は倭国に約30国があり、その中の邪馬台国(邪馬臺國/邪馬壹國)の女王が共立されて、倭国全体の女王になったとされる。

概要

魏志倭人伝によれば、次のような記載がある。倭国にはもともと男王がおり、70年から80年間統治していたが、互いに戦乱状態が続いていたため、卑弥呼を女王として共立したところ戦乱は治まった。卑弥呼は鬼道?による祭祀を行い、人々を惑わしていた。高齢で夫はいないものの、血縁の弟が補佐して国を治めている。王となってからは顔合わせした人は非常に少ない。侍女は千人いるが、男子一人が飲食物を運び、卑弥呼の言葉を伝え、卑弥呼の居所に出入りしている。宮殿や高楼には城柵で厳重に警備され、常に兵士がいて、武器を持ち警護している。

なお「弟」だけでは、必ずしも血縁でない場合があるが、原文は「男弟」なので、血縁のある(親が同じ)弟という意味となる。

倭国動乱

中国側史料によれば、倭国動乱の時期は二世紀後半とすることが共通している。『後漢書』(卷85、東夷列傳第75)に「桓帝・霊帝の治世の間」に倭国が大いに乱れ、王はいなかったと書かれている。その後、三世紀前半となって卑弥呼が鬼道を用いて信仰されるようになり、諸国から共立されて国を平和に導いた。「桓帝・霊帝の治世」とは、桓帝?後漢?の第11代皇帝であり、治世は西暦146年8月1日から168年1月25日(永康元年12月28日)までである。霊帝?は後漢の第12代皇帝であり、治世は168年から189年5月13日(中平6年4月11日)までである。両者を合わせると、西暦146年?から189年?の間となる。

部族同盟か地域国家同盟か

「共立」とは部族同盟なのか、それより進んだ地域的国家同盟なのか、結論は出ていない。
上田正昭は民会的要素が薄いため、単なる部族同盟ではなく、王族や諸官の合議により王が決まったものとしている(参考文献3)。

裏付け

仁藤敦史は「裏付ける史料として奈良県天理市の東大寺山古墳出土の鉄刀銘があるとする。この古墳から、「中平」(184 〜189年)という後漢年号を記した鉄剣が出土した。中平年号とは、「倭国乱」があったとされる中国の桓帝と霊帝の間(146〜189年)の年号の「光和年中」(178〜184年)の直後の年号である。「共立」されたばかりの卑弥呼が朝貢し、中国からその地位を承認する意味の剣が与えられたと考える」と主張する。

卑弥呼の墓

西谷正は魏志倭人伝の「卑弥呼以死,大作冢」の記載の解釈として、渡邉正気(参考文献4)の読み方が最も卓見と評価した。すなわち渡邉は『「卑弥呼,死をおもい,大いに冢を作る」と読み,卑弥呼は寿陵として径百余歩つまり後円部に当たる円丘の径約 150 m の巨大墳墓を自らの意思で作らせたと解釈』した(参考文献5)。そうした大規模な冢が北部九州ではみつかっいないことは、邪馬台国が北部九州に存在したという物証がないことを示すと評価する。卑弥呼の墓が箸墓古墳であったとするなら、卑弥呼が単なる群臣の推薦に乗ったお飾りの存在ではなかったことを示しているであろう。なぜなら箸墓古墳の築造には年あたり数万人から10万人の人力を集めなければならず、強力な政権の力を必要とするからである。しかも先行する弥生文化から隔絶した規模と計画性がみられる。甘粕健は「箸墓の土量 を30万m3として1m3の 築 成 につ いて3.5人で1日 を要す る とす る と延 べ100万 人」を必要とするとし(参考文献6)、さらに葺石、石室の構築、作業貝の供与、施設等に要する人員をさらに加算する」必要があるとする。 この労働力を集められる政治権力はかなり強力なものでなければならない。

卑弥呼の宮殿

卑弥呼の宮殿/イメージ図
平成20年度 ・ 21 年度に実施された第 162 次・第 166 次発掘調査により大型の掘立柱建物群が出土した。西谷正が卑弥呼の宮室(宮殿・居館)説を支持している。竪穴式石室から13 種類,合計 81 枚分の銅鏡片が採集され,大王陵の可能性があるとする。
卑弥呼の宮殿には宮室があり、男弟が政治を助ける。男子は卑弥呼に食事を持参し、卑弥呼の言葉を伝える。男弟とは別の人物のようである。男子は側用人のような存在であるが、世俗的な政治は男弟は補佐する。婢千人は全員が同じ建物には入らないが、一部は近侍する。食事は婢が作り、男子が運ぶ。護衛の兵士が宮殿の入口を警護する。
石野に卑弥呼の宮殿のイメージ図があるが(石野(2012),p.55)、それを纏向遺跡の発掘資料により補正した(桜井市立埋蔵文化財センター(2010)。

卑弥呼の鏡

卑弥呼が魏から下賜された銅鏡を三角縁神獣鏡とする考えは富岡謙蔵?(1920)により提唱され、梅原末治の分析と紀年銘鏡の発見などにより補強された。小林行雄同笵鏡の分有と伝世を分析し、三角縁神獣鏡と古代国家形成 に関する総合的なフレームワークを構築した(小林行雄(1962))。しかし、森浩一三角縁神獣鏡は中国から出土しないことを指摘し、三角縁神獣鏡は魏の鏡ではないと主張した(森浩一(1962))。
奥野正男は「三角縁神獣鏡は他の中国鏡と各種の共通点はあるが、多くの共通しない紋様や意匠がある」と指摘し、非中国的意匠が国産説の根拠になると指摘した(奥野正男(1989))。
西川寿勝?(1999)は下賜された銅鏡は皇帝からの下賜品であるから、最上位の宝器であり、金銀象嵌鏡などの宝飾鏡 あるいは貼金・鍍金の銅鏡であろうと指摘した。
石野博信画文帯神獣鏡とし、奥野正男は画文帯神獣鏡または方格規矩鏡と考えているとした(石野博信(2012),p.131-138)。
なお「鏡100枚」について鳥越は「数が多いことの比喩」として、30枚から40枚であろうとしている(鳥越憲三郎(2020))。これに対して森浩一は魏志倭人伝に記載された鏡100枚は皇帝の詔書の原文をそのまま引用したものであるから、数字の誇張はあり得ないとしている(森浩一(1994))。
筆者の考えとしては、数量は森浩一説が正しく100枚が妥当と考える。また種類は画文帯神獣鏡または方格規矩鏡と考えるのが妥当である。
なお、豊岡市の森尾古墳?出土鏡(兵庫県立古代鏡博物館蔵)に正始元年の銘があり、魏から卑弥呼がもらった銅鏡の一部である可能性が想定されている。宝塚市の安倉高塚古墳?から出土した赤烏7年の紀年銘のある鏡は「呉」の年号であり、文献にはないものの、邪馬台国が呉とも国交を結んでいた可能性が想定されている。

シャーマンか

卑弥呼の鬼道に関しては諸説がある(参考文献1)。
  1. 心霊を憑依させ、宣託するシャーマン(巫女)
  2. 鬼神(農耕神)を祀る司祭者
  3. 中国の民俗的な道教の一種である五斗米道や太平道(宗教団体)の教祖
  4. 埋葬・慰霊・供養など使者儀礼を行うもの
  5. 聖霊・死霊によっておこる病気の治癒祈祷を行う祈祷師

しかしながら、卑弥呼はシャーマン的性格があるが、単なるシャーマンではないという説が多数である。鬼道に仕えた司祭的機能と「親魏倭王」として君臨した女王の二面性があった(参考文献3)。

小林敏男は卑弥呼を南島のノロに相当する司祭者?とする。ノロは地位継承者として代々の司祭者であり、壱与との関係を考慮すると、司祭者を出す血筋を持った家柄とする。卑弥呼がシャーマンだとしても、託宣神?が何かはいまだ十分に検討されていないと指摘している)参考文献1)。

鬼道とは

古代史研究者の三品彰英は『邪馬台国研究総覧』の説明によると鬼道に事(つか)えるとは神霊と直接に交わることであり、卑弥呼のシャーマン的特徴が表れているとする。
中国の研究者である王明?は『抱朴子内篇校釋』の序文で、民間道教と貴族道教に区分し、民間道教を鬼道あるいは巫鬼道とし、貴族道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質とした(参考文献2)。
『晋書』には鬼道の記述があり、道士・李脱は妖術によって衆を惑わし、自ら八百歳であると称し、李八百と号したとされる。中州より建鄴に赴き、鬼道をもって病を療し、また
人を官位につけた。その時の人々はこれを信じ使えたという。これらのことから、卑弥呼が何らかの治療行為を行った可能性が考えられる。

外交的手腕

卑弥呼は外交的手腕に優れており、何度も使者を中国に派遣している。「親魏倭王」の称号を得ており、狗奴国と戦乱状態になったとの報告を中国に行っている。また新羅にも使者を派遣している。井上秀雄は『三国志』東夷伝倭人条の景初2年(238年)記事からの造作で、干支を一運遡らせたものとしている(参考文献7,p.61 註9)。

卑弥呼の就任時期と権力

三国史記の新羅本紀に173年(阿達羅尼師今20年)に新羅に遣使したとされる。卑弥呼の死去が247年頃とすると、173年にはまだ10歳代であったろうか。年代的には無理があるが、新羅本紀が正しいとすると、卑弥呼は83歳での死去となる。径100歩あまりの塚はかなり大きいので、延べ数万人の人員を動員できる権力があったと考えられる。「みこし」に乗ったお飾りレベルの権力者ではなさそうだ。

卑弥呼の死去

247年に使者を派遣しているので、派遣開始時は存命であったと推測される。張政が倭国に到着したときはすでに死亡しているため、247年の戦乱で死亡したとも考えられる。
死後の径100歩あまりの塚を築造した。徇葬者は男女の奴隷が百余人いたとされる。次に男王を立てたが、国中が不服のため再び動乱が起き、1000人が殺された。そこで卑弥呼の宗女の壱与13歳を王に立てると、国が安定したとされる。(魏志倭人伝)。

俾彌呼か卑彌呼か

古田武彦は卑彌呼ではなく、俾彌呼が正しいと主張する(古田武彦(2014))。その理由は「『三国志』 魏書 三少帝紀第四」の四年冬十二月に「倭國女王俾彌呼遣使奉獻」と書かれていることを挙げる。つまり俾彌呼は最初に登場する正式な名称であり、「『三国志』 魏書 烏丸鮮卑東夷傳第三十」の中で5回登場する「卑彌呼」は省略形であると主張し、古田は俾彌呼が正しいとする。漢字の意味であれば「俾」は「使」と同じ意味で、使役するという意味であり、「卑」は身分が低いという意味である。しかし卑彌呼は固有名詞ないし役職名であるし、倭国の発音を中国語に転写したものであるから、個々の漢字の意味はあまり重要ではない。
重要なことは「俾彌呼」の登場は三国志全体でも1回限りであり、5回記載される「卑彌呼」より正しいということはできない。なぜなら1回限りの登場では宋本の誤植かもしれないからである。さらに「後漢書《列傳》《東夷列傳》」においても「卑彌呼」と記載されている(有一女子名曰卑彌呼)。したがって、「俾彌呼」が正しいという事は出来ない。

卑弥呼年表

西暦中国歴出来事
173年阿達羅尼師今20年卑弥呼使を遣わし来聘す(新羅本紀)。
238年景初2年大夫難升米らを魏に遣わす、魏から金印紫綬と銅鏡100枚を得る(魏志倭人伝、以下同様)。
240年正始元年帯方郡太守弓遵は建中校尉梯儁らを倭国に遣わし、詔書・印綬・刀・鏡を倭王に与える。
243年正始4年倭王は大夫伊聲耆・掖邪拘ら8人を魏に遣わし、生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹・拊短弓・矢を献上した。
245年正始6年難升米に黄幢を賜い、帯方郡に付して仮授した。
247年正始8年卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と不仲のため、倭の載斯烏越等を派遣して、帯方郡に至り、戦争状態を説明した。魏は塞曹掾史の張政らを派遣し、詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄をつくり告諭した。張政らは卑弥呼の次の女王・壱与を檄をもって告諭した。
266年泰始2年倭の女王、使者を遣わして、西晋に入貢する。

参考文献

  1. 小林敏男(1987)『古代女帝の時代』校倉書房
  2. 王明(1980)『抱朴子内篇校釈』中華書局
  3. 上田正昭(1973)『日本の女帝』講談社
  4. 渡邉正気(2001)「『魏志倭人伝』の「卑弥呼以死」の読み方について」(日本考古学協会第 67 回総会研究発表要旨)
  5. 西谷正(2010)「邪馬台国最新事情」石油技術協会誌 第75巻,第4号 (平成 22 年 7 月)pp.277-285
  6. 甘粕健(1989)「前方後円墳の技術史」日本土木史研究発表会論文集 5(0), pp.1-10
  7. 金富軾撰、井上秀雄訳注(1980)『三国史記』第1巻、平凡社〈東洋文庫372〉
  8. 古田武彦(2014)「筑後国の風土記いみえる荒ぶる神をおさめた女王か?」歴史読本、KADOKAWA
  9. 石野博信(2012)『邪馬台国とは何か』新泉社
  10. 桜井市立埋蔵文化財センター(2010)「纏向遺跡の居館域の調査(纏向遺跡166次調査)」纏向考古学通信Vol2
  11. 富岡謙蔵(1920)『古鏡の研究』丸善
  12. 小林行雄(1962)「古墳文化の形成」『岩波 講座 日本歴史』1岩波書店
  13. 森浩一(1962)『古代史講座』学生社
  14. 森浩一(1994)『語っておきたい古代史』新潮社
  15. 奥野正男(1989)『邪馬台国発掘』PHP研究所
  16. 西川寿勝(1999)「三角縁神獣鏡と卑弥呼の鏡」日本考古学 6 (8), pp.87-99
  17. 鳥越憲三郎(2020)『魏志倭人伝 全釈』KADOKAWA

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