縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、平安時代など日本古代史の出来事と検討課題の考察を行う。考古学の成果も取り入れ、事実に基づき、合理的な歴史の再構築を図る。

平原遺跡(ひらばるいせき)は福岡県糸島市にある弥生時代から古墳時代の遺跡である。

概要

糸島市の雷山塊の麓に伸びる舌状丘陵の先端付近に位置する。
弥生時代では日本最多の銅鏡が出土した。東西18メートル、南北14メートルの長方形の墳丘墓で、40面におよぶ銅鏡が出土した。あり、そのうち5面の「内行花文鏡」は直径46.5センチメートルで日本最大である。1号墓は伊都国女王の墓と考えられている。副葬品などから弥生時代終末期(西暦200年前後)のものと判明している。

調査

1965年(昭和40年)1月に前原市有田の井手勇祐、セツ子、信英氏ら土地の所有者がミカンの木を植えるための溝を掘ったところ、農作業中に偶然、平原遺跡1号墓が偶然発見された。福岡県教育委員会を調査主体として平原遺跡調査団が結成され、前原在住の考古学者原田大六を中心に多くの市民の協力を得ながら約3ヶ月半に及ぶ調査が行われた。
遺跡の主体は周溝墓群である。中心となる遺跡は、幅2m前後の周溝が18m×14mの長方形上にめぐる周溝墓群である。中央に4.5m×3.6mの墓壙があり、長さ3mの割竹形木棺を収めていたと考えられる。棺内からガラス勾玉、管玉、連玉、小玉、瑪瑙管玉、琥珀丸玉など多量の玉類が発見された。棺外から素環頭大刀、刀子と破砕した42面文の銅鏡片が発見された。方格規矩鏡35、虺竜鏡1、長宜子孫連狐文1、倣製錬狐文鏡5がある。このうち錬狐文鏡4は同型鏡であり、径46.5cmの巨大なものであった。土器などの遺物と出土状況から弥生時代後期のものと考えられる。遺構はこのほか土壙墓群や弥生時代の柱穴や井戸がある。

出土

1号墓

1号墓の墳丘中央部に東西長4.6m、南北幅3.5mの墓壙が掘られ、王は内面に赤く朱を塗った割竹形木棺の中に頭位を西に向けて安置されていた。胸には青いガラス製の勾玉を身につけ、傍らからはガラス小玉が出土した。棺の内外から計40面の破砕された銅鏡、鉄素環頭大刀、耳璫(じとう)、瑪瑙(めのう)管玉が出土している。出土した副葬品は一括して国宝に指定されている。弥生時代後期(2世紀後半)に築かれたと考えられている。
ガラス耳璫(じとう)は古代中国の漢の時代の女性専用の装身具である。漢の貴族の女性が身に着けているが、日本での出土はこれだけである。武器類は少なく、装身具が多く出土していることから、女王の墓と考えられている。鏡・大刀・勾玉という『三種の神器』が副葬されていた。
平原王墓には総数40面の銅鏡が副葬されていた。平原王墓から出土した銅鏡のなかでも同じ型からつくられた5面の内行花文鏡は直径46.5cmに達する。わが国において最大であり、世界にも類を見ない超大型の銅鏡である。弥生時代では、ひとつの墓から出土した銅鏡の数として日本一である。大型内行花文鏡のうち1面は九州国立博物館、4面は伊都国歴史博物館に展示される。
出土内容
銅鏡前漢鏡 2(中型),後漢鏡32(大型6,中型27),仿製鏡5(超大型4,小型1)
武器鉄素環頭太刀 1
装飾品ガラス製勾玉3,ガラス管玉20,ガラス小玉600,赤瑪瑙管玉12,蛋白石丸玉500,蛋白石耳 玉
平原王墓の西に二対、北裾に一対の鳥居状の並び柱跡が確認されている。王墓の東に直径約70cmの大柱を埋めた柱穴が検出された。葬送の儀礼に際して樹立された柱群と考えられている。対の並び柱は鳥居のような役割を果たしたと考えられている。

2号墓

2号墓に埋葬された人物は、1号墓の王の近親者である可能性が高い。1号墓の南西に築かれた東西7mほどの隅丸方形の墳墓で中央に舟形木棺の埋葬痕跡が残っている。周溝および周溝周辺で出土した土器から弥生時代終末〜古墳時代初頭に築かれたものと考えられている。

3号墓

主体部は不明であるが、刀子1本、滑石製臼玉、ガラス小玉、鉄鏃、土師器が出土した。古墳時代前期と考えられている。

4号墳

3号墓の南西部に築かれた径55ほどの円墳で、中央部から土壙墓を検出した。副葬品はなかった。

5号墓

5尾号墓は、隅丸方形プランの墳丘墓で、5.6m×5.2mの規模である。墳丘裾から弥生時代後期初頭の小児を埋葬した土器棺が出土した。墓群中最古の墓である。付近に2面分の銅鏡(前漢鏡)片が採集されており、この墓に副葬されていた可能性が高い。
古い順に、5号墓 → 1号墓 → 2号墓 → 3号墓・4号墳 の順であり、2号墓までは弥生時代、3・4号墓は古墳時代に入ってからの築造と想定されている。

シルクロード経由のガラス玉

奈良文化財研究所の田村朋美主任研究員らの分析により、平原遺跡で出土したガラス玉は、ユーラシアのシルクロードの一つ「草原の道」経由でもたららされたものであることが」判明した。古代のガラス交易路の調査で訪れたモンゴルで、弥生時代と同時期に栄えた騎馬民族・匈奴の墓で出土したガラス連珠が平原遺跡のものと色や形がよく似ていることを確認し、また同じ連珠はカザフスタンの遺跡でも出土していた。カザフスタン両国の研究機関や平原遺跡の出土品を収蔵する糸島市立伊都国歴史博物館と協力し、3遺跡の連珠の成分を蛍光X線分析装置で測定すると、ナトロンという塩類を使ったソーダガラスで、アンチモン、マンガンなどの微量成分を含んでおり、同じ場所で作られた可能性が高いと判明した(参考文献2)。

指定

  • 1982年(昭和57年)10月、国の史跡に指定。

所在地等

  • 名称: 平原歴史公園
  • 所在地:〒819-1132  福岡県糸島市有田1番地他
  • 交通:JR筑前前原駅北口から井原山線「平原古墳入口バス停」下車、徒歩約5分

展示施設

平原遺跡の遺物は伊都国歴史博物館で展示している。
  • 名称:伊都国歴史博物館
  • 所在地:〒819-1582 福岡県糸島市井原916番地
  • 交通:糸島市コミュニティバス井原山線(片道200円、約22分)、「伊都国歴史博物館前」下車(徒歩約2分)

参考文献

  1. 前原市教育委員会(2000)『前原市文化財調査報告書70:平原遺跡』前原市教育委員会
  2. 伊都国「王墓」ガラス玉、「草原の道」から」朝日新聞, 2021年9月18日
  3. 福岡県教育委員会(1965)「福岡県糸島郡平原弥生古墳調査概報」

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