投馬国(とうまこく、つまこく)は、『魏志倭人伝』に記載された倭国の国のひとつである。邪馬台国の九州説と近畿説とで、比定場所が異なる。
魏志倭人伝では不彌國から投馬国まで「水行20日」を要すると書かれている。投馬国から邪馬台国までは「水行十日 陸行一月」とする。水行とは海岸を伝いに船で移動することをいい、陸行と対比される。渡海は海岸の見えない海を渡ることを意味する。
- (大意)(不弥国から)南に水行二十日で投馬国に至る。官を弥弥と言い、副を弥弥那利と言う。五万余戸ある。
- (原文)南至投馬國水行二十日官曰弥弥副曰弥弥那利可五萬余戸
- (大意) 投馬国から女王の都までは水行して10日、さらに陸行して一月を要する。
- (原文) 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
投馬国の比定場所には複数あり、定まっていない。
大きく分けると邪馬台国九州説と近畿説とで、大きく異なる。
名前の類似を元にした比定もあるが、根拠が薄いと考えられる。
大きく分けると邪馬台国九州説と近畿説とで、大きく異なる。
名前の類似を元にした比定もあるが、根拠が薄いと考えられる。
No | 分類 | 比定地 | 提唱者 | 文献 |
1 | 九州説 | 肥後国託麻郡玉名 | 新井白石 | 外国之事調書 |
2 | 九州説 | 肥後当麻郷 | 藤井甚太郎 | 邪馬台国の所在について |
3 | 九州説 | 日向国児湯郡妻「都万」 | 本居宣長 | 馭戎慨言 |
4 | 九州説 | 筑後国 | 白鳥庫吉 | 卑弥呼問題の解決 |
5 | 九州説 | 薩摩国薩摩郡 | 吉田東吾, 久米邦武 | 日韓古史談, 日本古代史 |
6 | 九州説 | 大分県日田郡五馬 | 富来隆 | 魏志「邪馬台」の新考察 |
7 | 九州説 | 豊の国(豊前・豊後) | 村上義雄 | 邪馬台国と金印 |
9 | 九州説 | 五島列島 | 角田彰男 | 邪馬台国五文字の謎 |
10 | 近畿説 | 備後国沼隈郡鞆 | 新井白石 | 古史通或問 |
11 | 近畿説 | 播磨国須磨 | 新井白石 | 古史通或問 |
12 | 近畿説 | 周防国佐婆郡玉祖郷 | 内藤虎次郎 | 卑弥呼考 |
13 | 近畿説 | 備前国「玉の浦」(岡山県玉野市玉) | 青木慶一 | 邪馬台の美姫 |
14 | 近畿説 | 出雲 | 笠井新也 | 邪馬台国は大和である |
15 | 近畿説 | 但馬 | 山田孝雄 | 狗奴国考 |
16 | 近畿説 | 備中吉備 | 西谷正 | 魏志倭人伝の考古学 |
比定場所の表に挙げたように、九州説と近畿説とでは、比定場所が大きく異なる。
前提として、投馬国に至る水行20日とその後の水行10日合わせると水行30日で、不彌國から邪馬台国までの3分の2の距離にあると考えられる。さらに人口は5万と奴国の2万よりおおく、邪馬台国の7万より少ない。つまり大規模な遺跡が残っている場所が想定できる。考古学者の西谷正氏はそこから投馬国は備中吉備を想定する(西谷正(2009))。弥生時代の遺跡として、上東遺跡が浮上する。上東遺跡には古代の船着き場の遺構が出土している。出土物から遺構からして3世紀の拠点集落であったと考えられる。上東遺跡からは卜骨、瓦質土器が見つかっており、投馬国であったとしても不思議ではない。
前提として、投馬国に至る水行20日とその後の水行10日合わせると水行30日で、不彌國から邪馬台国までの3分の2の距離にあると考えられる。さらに人口は5万と奴国の2万よりおおく、邪馬台国の7万より少ない。つまり大規模な遺跡が残っている場所が想定できる。考古学者の西谷正氏はそこから投馬国は備中吉備を想定する(西谷正(2009))。弥生時代の遺跡として、上東遺跡が浮上する。上東遺跡には古代の船着き場の遺構が出土している。出土物から遺構からして3世紀の拠点集落であったと考えられる。上東遺跡からは卜骨、瓦質土器が見つかっており、投馬国であったとしても不思議ではない。
投馬国と備中とは地名がどう結びつくか、という問題がある。これには2つの説明が可能かもしれない。
- 説 備中に「玉嶋」という地名がある。TamaとTumaとは、発音が似る。現在でも岡山県に「玉島」がある。3世紀にも「玉嶋」の地名があったのか、という問題は残る。備前に「嶋」、備中に「志麻」の地名があり、古代からあるようだ。TumaとSimaとでは少し遠そうだ。
- 説 鳥越説では、吉備国の建国の祖である「御友別」(日本書紀応神天皇廿二年春三月、秋九月辛巳)が登場する。「御」は尊称、「別」は姓なので、友(Tomo)が名前である。TumaとTomoは発音が似る(参考文献1,pp.99-103)。ただし人名と地名という違いがある。
タグ
コメントをかく