纏向遺跡(まきむくせき), Makimuku Heritage)は奈良県 桜井市にある古墳時代前期を中心とする集落遺跡である。
弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡である。纒向川の扇状地に広がる東西約2キロメートル、南北約1.5キロメートルの広大な遺跡である。纏向遺跡は規模が大きいこと、東海地方を始めとする他地域の土器が大量に出土したことから注目されている。この遺跡は地域間交流の重要拠点であったと見られている(参考文献2)。
3世紀の国内最大級の集落跡であり、邪馬台国畿内説の有力候補地とする説もある。3世紀初めに突然に大集落が形成され、集落内には纒向型前方後円墳と呼ばれる共通の規格のある発生期の古墳群が登場している。農耕具はほとんど出土しないこと、多数の掘立柱建物、大規模な水路、祭祀土坑などが検出され、ヤマト政権発祥の地と考える説が有力である。
旧纒向村の多くの大字に跨って遺構の存在が確認された為、「纏向遺跡」と命名されている。
3世紀の国内最大級の集落跡であり、邪馬台国畿内説の有力候補地とする説もある。3世紀初めに突然に大集落が形成され、集落内には纒向型前方後円墳と呼ばれる共通の規格のある発生期の古墳群が登場している。農耕具はほとんど出土しないこと、多数の掘立柱建物、大規模な水路、祭祀土坑などが検出され、ヤマト政権発祥の地と考える説が有力である。
旧纒向村の多くの大字に跨って遺構の存在が確認された為、「纏向遺跡」と命名されている。
1971年(昭和46)から本格的な調査が開始された。奈良県立橿原考古学研究所が調査を行い、東西2.5キロメートル、南北2キロメートルの範囲内に一つの水系によって結ばれた6か所の居住地と古墳群を確認した。
大量の桃核は中国の道教思想によるものとの見解もある。桃核と土器の付着物について放射性炭素年代測定?が行われており、桃核は135年から230年、器の付着物は127年から237年という結果が得られている(参考文献3)。ゴミを廃棄した土坑ではなく、祭祀に伴うものと考えられている。
庄内式期の後半に東西方向に並ぶ大型建物群が検出された。最大の総柱構造を持つ大型建物は4間×4間(19.2m×12.4m)で床面積は238m2に及ぶ。この建物を中心に東西40m以上、南北30m以上の塀が巡らされていた。
纒向遺跡第192次調査で鋸歯文の線刻が施された埴輪片や鶏形埴輪片などが出土した。
長さ26センチメートル、幅21.5センチメートルで、厚さは0.6センチメートル前後である。弥生時代の仮面の実例は見られず、古墳時代においても確認されていなかった。祭祀の一場面で使用されたものと推定される。
- 名称:纏向遺跡
- 時代:弥生後期、古墳前期
- 遺跡面積:13651.92 m2
- 南北:約2km
- 東西:約2.5km
- 所在地: 奈良県桜井市大字辻地区
- 交通: JR巻向駅
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