高井田山古墳(たかいだやまこふん)は 大阪府柏原市にある円墳である。
生駒山地の南端部であり、大和川を望む丘陵上にある。大和川は大阪平野で急に流れを北へと変えるが、屈曲点の北に史跡高井田横穴公園がある。屈曲点の北に史跡高井田横穴公園がある。公園内の北東隅の標高の最も高い場所に高井田山古墳がある。標高は65m。
墳丘中央に横穴式石室があり、南に開口する右片袖式の石室である。直径22m前後の円墳で、北側に造り出し状の突出部をもつ可能性がある。
墳丘中央に横穴式石室があり、南に開口する右片袖式の石室である。直径22m前後の円墳で、北側に造り出し状の突出部をもつ可能性がある。
平成2年11月、史跡高井田横穴公園の整備にともない発掘調査が行われた。表土をはぐと板石が並んでおり、当初は竪穴式石室、つまり前期古墳と考えていた。掘り下げるにつれて、初期の横穴式石室と確認され、ひのしや銅鏡などさまざまな副葬品が大量に出土した。
羨道が左側に寄り、右側が壁となる右片袖式である。短い羨道が取り付き、天井はドーム状となっている。
玄室内に木棺が2つ平行に並んでいたと考えられ、安置された2つの棺は、厚さ7〜9cmのコウヤマキの板材を鉄釘で組み合わせている。
西側壁中央部は盗掘と考えられる後世の撹乱によって損なわれていた、
西棺は一部盗掘を受けたが、東棺は未盗掘であった。
副葬品の出土位置から被葬者は頭を北に向けて埋葬されていたと判明する。石室内に夫婦を二棺並列に埋葬する形態は当時の倭国にはなかった。
石室は百済から渡来した技術工人によってつくられたと推定されている。石室は花崗岩の風化層を整形した後、長さ5.4m、幅3.5m、深さ約1mの墓坑を掘り込んで築かれている。玄室の四隅はほぼ直角で、周囲の壁は垂直に立ち上がっている。石室の石材は、割石もあるが、大半は自然石である。奥田尚氏の鑑定によると、カンラン石輝石安山岩、輝石安山岩で、南東約1kmにある芝山周辺で採取したものとみられる。
玄室内に木棺が2つ平行に並んでいたと考えられ、安置された2つの棺は、厚さ7〜9cmのコウヤマキの板材を鉄釘で組み合わせている。
西側壁中央部は盗掘と考えられる後世の撹乱によって損なわれていた、
西棺は一部盗掘を受けたが、東棺は未盗掘であった。
副葬品の出土位置から被葬者は頭を北に向けて埋葬されていたと判明する。石室内に夫婦を二棺並列に埋葬する形態は当時の倭国にはなかった。
石室は百済から渡来した技術工人によってつくられたと推定されている。石室は花崗岩の風化層を整形した後、長さ5.4m、幅3.5m、深さ約1mの墓坑を掘り込んで築かれている。玄室の四隅はほぼ直角で、周囲の壁は垂直に立ち上がっている。石室の石材は、割石もあるが、大半は自然石である。奥田尚氏の鑑定によると、カンラン石輝石安山岩、輝石安山岩で、南東約1kmにある芝山周辺で採取したものとみられる。
近畿地方では初期の横穴式石室であり、百済の横穴式石室の影響を受けているとされる。ソウル市の可楽洞(カラクトン)古墳群や芳夷洞(パンイドン)古墳群は、構造が似た石室とみられる。原州市法泉里(ポムチョンリ)1号墳など、475年以前に遡るものがあるようである。大型化した石室は畿内型横穴式石室となり、高井田山古墳の石室は、日本の畿内の横穴式石室の原点となった石室とみられている。
日本の古墳からの出土品で完存するひのしは、橿原市新沢千塚126号墳出土品と本例のみである。高井田山古墳出土品とよく似るひのしは、韓国の武寧王陵から出土している。ひのしは中国南朝で製作されたものと考えられており、百済を経由して日本にもたらされたと推定されている。
柏原市立歴史資料館で保管する。
- 神人龍虎画像鏡1点、
- 熨斗1点、
- 耳環3点、
- ガラス玉322 点、
- 鉄刀8点、
- 槍7点、
- 矛9点、
- 石突20点、
- 鉄鏃456点、
- 横矧板鋲留衝角付冑1点、
- 頸甲一式(3点)、
- 肩甲一式(4点)、
- 横矧板鋲留短甲一式(18点)、
- 小札383 点、
- 馬具一式(25点)、
- 鎌1点、
- ヤリガンナ1点、
- 刀子6点、
- 布付鉄片1点、
- 不明金属片1点、
- 鉄釘58点、
- 鎹43点、
- 須恵器23点、
- 土師器2 点、
- 埴輪26点、
- 木心布巻製品2点、
- 漆膜一式、
- 繊維一式(21点)、
- 石鏃1点
高井田山古墳の被葬者は百済の昆支王の可能性があるとの説がある。日本書紀によれば雄略天皇5年(西暦461)に日本に来たとされる。東棺には銅鏡、熨斗、ガラス玉が副葬されている。熨斗は大陸や朝鮮半島では女性の持ち物とされるので、東棺の被葬者は女性と考えられる。西棺は男性とみられる。
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