縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、平安時代など日本古代史の出来事と検討課題の考察を行う。考古学の成果も取り入れ、事実に基づき、合理的な歴史の再構築を図る。

稲荷山古墳(いなりやまこふん)は埼玉県行田市にある前方後円墳である。

概要

埼玉古墳群の中で最初に出現した古墳である。5世紀後半から6世紀の築造とされる。周濠は長方形で二重となる。名称は後円部に稲荷社があったことに由来する。稲荷山古墳は昭和初期まで個人の所有地であった。墳丘、中堤のそれぞれ西側に、造出しという張り出し部が設けらている。

遺物

前方部は破壊されたが、1978年に残された後円部から文字の刻まれた鉄剣(現在は国宝)が出土した。

稲荷山古墳金錯銘鉄剣

現存する最古の日本語文とされる。鉄剣に合計115字の漢字銘文が彫られる銘文の作成年月、意富比垝から銘文を刻ませた乎獲居臣までの8代の系譜、乎獲居臣と大王との関係、銘文作成の由来を記す。。銘文にみられる「獲加多支鹵大王」を「ワカタケル大王」と読み、大長谷若建命、すなわち雄略天皇にあて、銘文作成の辛亥年をその在位期間中の471年に比定するのが通説である。欽明天皇の531年に擬する説もある。

銘文

(表面)辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比
(裏面)其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也

銘文の読み下し

(表面)辛亥の年七月中記す。乎獲居の巨。上祖、名は意富比垝、其の児、多加利の足尼、其の児、名は弖已加利獲居、其の児、名は多加披次獲居、其の児、名は多沙鬼獲居、其の児、名は半弖比、
(裏面)其の児、名は加差披余、其の児、名は乎獲居の臣。世々杖刀人の首と為り、奉事し来たり今に至る。獲加多支鹵大王の寺、斯鬼の宮に在る時、吾天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根源を記す也。

参考文献

  1. 江上波夫(1993)『日本古代史辞典』大和書房

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