縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、平安時代など日本古代史の出来事と検討課題の考察を行う。考古学の成果も取り入れ、事実に基づき、合理的な歴史の再構築を図る。

環濠集落(かんごうしゅうらく, Moated Settlement)は外敵の侵入を防ぐために周囲を柵で囲み、壕を巡らせた集落である。

概要

弥生時代になると人々の生活が安定したが、収穫物や耕作地の水利を巡って集落同志が争うようになる。争いから集落を守るため周囲に深い濠を巡らす「環濠集落」が造られるようになった。農耕が始まった8000年前の中国で環濠集落がみつかっている。
環濠集落がみられるのは、弥生時代、10世紀から11世紀の東方地方、室町から戦国時代の近畿地方(大阪府堺環濠都市、奈良県稗田環濠集落)、に限られる(参考文献1)。
環濠集落は弥生時代の標準的な集落と考えられた時期があったが、藤原哲(2011)は300遺跡を検討し、弥生時代の標準的な集落ではなく、むしろ希少な集落と結論付けた(参考文献1)。

特徴

奈良県では濠の幅は約6〜8mが標準。内部に20〜30戸の家屋が建ち並び、中心に寺や神社を有している。しかし田原本町の「法貴寺遺跡」では集落の一辺は約50m、濠の幅は2〜3mと小規模で、これらが3〜4区画集まる。濠の目的は灌漑用水を溜めることで、防御機能は時代の流れに対応して付加されたとみられる。

吉野ヶ里遺跡

吉野ヶ里集落の、東の正門は外壕を埋め立てて土橋を造り、その内側に大きな門を備えていたようである。外壕に7カ所、南北内郭に3ヶ所の入口が確認されている。入口には兵士が厳重な警備をしていたと思われる。外壕で囲まれた範囲は南北1km以上、東西は最大で0.5km以上、面積は約40haである。外壕断面の形態は南西部低地で逆台形となっている以外はV字形である。発掘時の規模は幅2.5〜3.0m、深さ2mが一般的で、最大の部分は幅6.5m、深さ3mである。

環濠集落の事例

  • 竹内環濠集落? – 奈良県
  • 萱生環濠集落? – 奈良県
  • 稗田環濠集落? - 奈良県

参考文献

  1. 藤原哲(2011)「弥生社会における環濠集落の成立と展開」総研大文化科学研究7号, pp.59-81

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