岩戸山古墳(いわとやまこふん)は福岡県八女市にある北部九州最大の前方後円墳である。
|4|武器・武具|大型|鞘、盾
福岡県の南内陸部の八女丘陵上に展開する八女古墳群のひとつ。古墳は東西を主軸とし、後円部は東に向けられる2段造成である。被葬者は「磐井」といわれ、日本書紀の中で「ヤマト政権に対する反乱」とされている筑紫地方の豪族である。八女丘陵上の古墳群は磐井一族とその構成員層のものと考えられている。
- 1808年(文化5年) 江戸後期に後円部墳頂部から二体の石製品が出土した記録がある。
- 1924年(大正13年)大神宮造営に伴い、円筒埴輪、須恵器、石製品が出土した記録がある。
- 昭和初期、森本六爾が墳丘部調査、後円部裾野調査で周堤から扁平石人の発見記録がある。
- 1946年、九州考古学会により周堤で円筒埴輪列を確認した。
- 1963年、集中豪雨による緊急調査で円筒埴輪列と4点の石製品を発見した。
- 1969年(福岡県教育委員会)と1971年(九州大学)にかけての調査で、墳丘規模や構造が判明した。
埋葬施設は未確認である。矢野一貞が作成した『筑後将士軍談』の墳丘絵図に後円部と前方部の上段斜面にほり崩しの窪みが描かれている。「共に石窟跡」と注記され、横穴式石室があったと矢野一貞は推測した。森貞次郎はこれに批判的で、六世紀前葉に一般的なくびれ部方向に開口する横穴式石室を推測している。
1991年から1995年に九州大学工学部の水永秀樹さんを研究団長とする電気探査で埋葬施設を探索した。成果によれば、横穴式石室は後円部中央付近の「現地面からの深さ3mから7mの範囲に存在し、石室の大きさは幅3m、高さ4m、長さ10m程度」で、南西方向に向いているという。横穴式石室の深度に疑問はあるが、南側くびれ部分の一段テラスに開口する可能性が高いとされる。
1991年から1995年に九州大学工学部の水永秀樹さんを研究団長とする電気探査で埋葬施設を探索した。成果によれば、横穴式石室は後円部中央付近の「現地面からの深さ3mから7mの範囲に存在し、石室の大きさは幅3m、高さ4m、長さ10m程度」で、南西方向に向いているという。横穴式石室の深度に疑問はあるが、南側くびれ部分の一段テラスに開口する可能性が高いとされる。
- 岩戸山古墳の石製表飾
- 最大の特徴は種類、量、サイズである。デザイン性の高さもある。
No | 分類 | 型 | 出土 |
1 | 人物形 | 大型 | 武人、文人、力士、裸体 |
2 | 人物形 | 小型 | 武人、文人、力士、裸体 |
3 | 武器・武具 | 大型 | 刀/剣 |
5 | 動物形 | 大型 | 馬、鶏 |
6 | 動物形 | 小型 | 鶏、猪 |
7 | 容器形 | 大型 | 壺 |
8 | 容器形 | 小型 | 壺 |
9 | 木製立物形 | 笠、石見型 | |
10 | レガリア形 | 勾金、蝶形金具 | |
11 | 形状不明品 |
- 岩戸山古墳の石人・石馬に三葉文杏葉の陽刻や振り環頭の太刀形陽刻がある。これらは継体大王との密接な関係性が推測される。
- 磐井は博多湾内に朝鮮半島向けの港湾施設(糟屋屯倉)を設けており、有明海・玄界灘・東シナ海に影響力があった。特に朝鮮半島南部に独自の交流網を構築していた。
- 名称:岩戸山古墳
- 形式:前方後円墳
- 被葬者: 『筑後国風土記』によると筑紫君磐井の墓とされる。
- 築造時期: 6世紀前半(古墳時代後期)
- 全長:135m
- 後円部直径:60m
- 後円部高さ:18m
- 前方部幅:92m
- 前方部高さ:約17m
- 所在地: 福岡県八女市大字吉田字甚三谷
- 交通: 西鉄久留米駅より八女行きバス「福島高校前」下車
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