縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、平安時代など日本古代史の出来事と検討課題の考察を行う。考古学の成果も取り入れ、事実に基づき、合理的な歴史の再構築を図る。

古代の鼠(こだいのねずみ)は日本の古代に登場する鼠である。

概要

弥生時代の登呂遺跡?の建物にねずみ返しがある。倉庫の穀物をねずみに取られないようにするための装置である。すなわち、弥生時代に鼠が人々の近くにいた証拠である。
古事記・日本書記にも鼠は登場するが、鼠の埴輪や土偶はないようである。
  • 獣頭人身像
    • 奈良時代の聖武天皇の皇太子墓を守るために置かれていた奈良時代の十二支像に鼠の頭を持つ隼人石像碑拓本がある。拓本は江戸時代・19世紀であるが、隼人石像原碑は奈良時代・8世紀である。奈良の隼人石は聖武天皇の皇太子、基皇子の墓とされる那富山墓の域内にある。陵墓として宮内庁が管理している。

文献に現れた鼠

  • 古事記
    • 最古の例は『古事記』巻上に須佐之男命から3つの試練を与えられた大穴牟遅が三日目に大野の中に射込まれた鳴鏑の矢を拾って来るときに、野原で火を放たれ、逃げるために鼠が誘導する話がでてくる。また鼠が鳴鏑の矢をくわえて持参した。鼠は救済者として登場し、大穴牟遅は受動的に問題を解決する。
    • (原文)亦鳴鏑射入大野之中、令採其矢、故入其野時、卽以火廻燒其野、於是不知所出之間、鼠來云「內者富良富良、外者須夫須夫此」如此言故、蹈其處者、落隱入之間、火者燒過。爾其鼠、咋持其鳴鏑出來而奉也、其矢羽者、其鼠子等皆喫也。
    • (大意)鳴鏑が広野に射入れられた中に、その矢を取りに行かされ。広野に入るや否や、火をその野の周囲に放ち、燃やした。そのため、出口を見付けられずにいると、鼠が来て言った。 「内はホラホラ、外はスブ-スブ」。このように言ったので、 その場所を踏んだところ下に落ち、隠れている間に、火は燃え過ぎた。 すると、その鼠が鳴鏑を咥え持って出てきて、渡した。 矢羽の部分は、鼠の子ども達が食べてしまっていた。
  • 日本書記 孝徳記
    • 日本書紀では予兆を知らせる動物として鼠が登場する。
    • (原文)冬十二月乙未朔癸卯、天皇遷都難波長柄豐碕。老人等相謂之曰。自春至夏、鼠向難波、遷都之兆也。戊午、越國言。海畔、枯査向東移去、沙上有跡如耕田狀。是年也、太歲乙巳。
    • (大意)冬12月9日。孝徳天皇は都を難波長柄豊碕に遷都した。老人たちは語り合って言う。「春から夏になるまでに、鼠が難波に向かったのは遷都する兆候だったのか」と。

参考文献

  1. 大塚初重・小林三郎(1996)『古墳事典』東京堂出版

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