縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、平安時代など日本古代史の出来事と検討課題の考察を行う。考古学の成果も取り入れ、事実に基づき、合理的な歴史の再構築を図る。

行燈山古墳(あんどんやまこふん)は奈良県天理市にある前方後円墳である。

概要

『古事記』には「御陵在山辺道勾之岡上也」(御陵は山辺道の勾之岡の上に在り)と記載され、『日本書紀』では「山辺道上陵」と記載される。
崇神大王の陵墓「山辺道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのうえのみささぎ)」として陵墓に指定されており、宮内庁が管理している。3基の陪塚を伴う。築造年代は4世紀後半(古墳時代前期後半)の早い時期と推測されている。

調査

墳丘全長242mの3段築成の古墳である。後円部の周濠の幅は25mあり、堀幅を含めた古墳の全長は340mの規模になる。周濠は北側にくびれ部があり、盾型となっている。大和政権の成立の謎を握る重要古墳と言われているが、考古学的には不明な点が多い。平成29年2月24日に、考古・歴史学15学会代表による立ち入り調査が行われた。

陪塚

古墳の周囲に3基の陪塚がある。南アンド古墳(全長65m)、アンド山古墳(全長120m)、大和天神山古墳(103m)である。全て前方後円墳で、地方では豪族クラスの規模となる。大和天神山古墳からは1960年におこなわれた発掘調査で竪穴式石室から内部からは木棺の一部とともに内行花文鏡をはじめとする23面の鏡と、多量の水銀朱が出土した。

遺構

埋葬施設は不明であるが、昔の絵図に後円部墳頂に南北方向の盗掘跡と見られる掘り込みが描かれており、掘り込みの様子から竪穴式石室と考えられている。

遺物

古墳には円筒埴輪の存在が知られる。江戸時代末に柳本藩が大修復を行い、その工事で南側の周濠から長さ70cm、幅約50cmの銅板1枚が発見された。その両面の方形格や内行六花紋、重圏紋などが線刻されている。銅板は行方不明だが、拓本が残されている。宮内庁書陵部の調査では円筒埴輪、土師器、須恵器などが出土している。

指定

崇神大王

『古事記』では「初国を知らす御真木天皇」とされている。『古事記』に師木の水垣宮(現桜井市金屋)で天下を治めた。大物主大神の祟りによって疫病が蔓延したとき、神託に従って意富多々泥子(大物主大神の子孫)を探し求め、美和山(三輪山)に祭らせることにより再び国家は平安となった。また、諸国平定のため大毘古命・建沼河別命親子を高志道・東国十二道へ派遣し、日子坐王を旦波国へ派遣した。さらに反乱を企てた建波爾安王を討滅している。また、税制度も確立したとされている。江戸時代後期には、蒲生君平が『山陵志』で景行天皇陵に比定し、幕末に谷森善臣が『山陵考』で崇神天皇陵に比定して、明治時代に宮内省(現・宮内庁)それを踏襲して崇神天皇陵と比定した。

アクセス等

  • 名称:行燈山古墳
  • 形式:前方後円墳
  • 被葬者: 大王あるいは有力首長の墓
  • 築造時期: 4世紀後半(古墳時代前期後半)
  • 全長:242m
  • 後円部直径:160m
  • 後円部高さ:23m
  • 前方部幅96:m
  • 前方部高さ:約14.6m
  • 所在地: 天理市柳本町字行燈
  • 交通: JR柳本駅から徒歩15分

参考文献

  1. 大塚初重(2019)『巨大古墳の歩き方』宝島社
  2. 大塚初重(1996)『古墳事典』東京堂出版

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