縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、平安時代など日本古代史の出来事と検討課題の考察を行う。考古学の成果も取り入れ、事実に基づき、合理的な歴史の再構築を図る。

平田篤胤(ひらた あつたね、1776年 – 1843年)は江戸時代の国学者である。

概要

安永5年(1776年)8月24日、秋田藩士・大和田清兵衛祚胤の家に生まれる。20歳で脱藩して江戸に出て、備中松山藩士の兵学者である平田篤穏の養子となる。
26歳の時、駿河沼津藩士石橋常房の娘・織瀬と結婚した。
独学で本居派国学を学び、本居宣長の生前に入門したと自称し、宣長の学問を古道学と規定し、その後継者をもって自任した。享和3年(1803年)、宣長学の立場から太宰春台の『弁道書』を批判する処女作『呵妄書』を執筆して注目される。門人を集め講筵を開き、また旺盛に著作を執筆した。1811年(文化8年)に代表作『古史徴』の草稿ができ、819年(文政2年)に刊行する。
文化9年(1812年)、妻織瀬が亡くなる。1812年(文化9年)代表作『古史伝』を著す。
各史書のあいだで内容に差異があるのは何故かを考究し、『古事記』上巻、『日本書紀』、『古史成文』を執筆した。文政元年(1818年)11月18日、43歳となった篤胤は門人山崎篤利の養女と再婚した。文政6年(1823)上京し、著書を朝廷に献じ、また和歌山に大平を訪い、松坂に春庭を訪ね奥墓に参詣する。尾張藩や水戸藩に接近したが、天保12年(1841)年、江戸幕府の暦制を批判した『天朝無窮暦』を出版したが、幕府の忌むところとなり、著述差し止め、国元帰還を命じられた。国では秋田藩に仕官するが、失意の内に天保14年(1843年)9月11日、久保田城下亀ノ丁で病没した。

参考文献

  1. 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
  2. 吉田麻子(2016)『平田篤胤−交響する死者・生者・神々−』平凡社

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