縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、平安時代など日本古代史の出来事と検討課題の考察を行う。考古学の成果も取り入れ、事実に基づき、合理的な歴史の再構築を図る。

アーネスト・フランシスコ・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa,1853年2月18日-1908年9月21日)はアメリカ合衆国?生まれの東洋美術史研究者、哲学者、教育者である。日本美術の価値を日本国内と海外で広く紹介した。

概要

来日前

1853年?にアメリカ合衆国マサチューセッツ州セーラム(現ダンバース(Danvers))で生まれる。父親はスペイン?マラガ?生まれのピアニスト?「マニュエル・フランシスコ・フェノロサ」(Manuel Francisco Ciriaco Fenollosa)、母親は名門の娘「メアリー・シルスビー」(Mary Silsbee)であった。13歳の時に母が病没する。ハッカー初等中学校のあと、セーラム高等学校で学んだ。1870年に17歳でハーバード大学?に入学して哲学?社会学?を学び、1874年に卒業した。卒業後はハーバード大学大学院の神学研究科に進学し、1976年大学院を修了する。日本に来るころ、セーラム高等学校の同窓生のリジー・ミレット(Lizzie Goodhue Millet)と1876年10月に結婚している。1877年1月からボストン美術館付属美術学校で油絵を学んだ<ref>フェノロサは開校の年に入学した。</ref>。

来日

1878年?(明治11年)エドワード・モースの推薦でお雇い外国人教師として来日し、東京帝国大学?政治経済学?哲学?を教える。モースからフェノロサが東京帝国大学の政治学教授就任の話を聞いたのは美術学校在学中の1877年8月頃と推定されている<ref name=hotta>堀田謹吾(2001)『名品流転』日本放送出版協会</ref>。日本政府と正式に契約を交わしたのは、1978年8月10日であった。月給は金貨300円であった。当時の金額で300円はかなり大きな金額で、外務大輔(省庁の次官)クラスであった。当時の学生は25名で、第一学年に有賀長雄?坪井勇蔵?、第二学年に嘉納治五郎?、牧野是利([[牧野伸顕)])、第三学年に岡倉天心(岡倉角蔵)がいた。東京帝国大学における講義を聴いたのは岡倉天心嘉納治五郎?井上哲次郎?高田早苗?坪内逍遥?清沢満之?らであった。。

美術への関心

1872年?(明治6年)のオーストリア?ウィーン?で開催された万国博覧会(会期:1873年5月1日〜11月1日)にフェノロサ兄弟は来場した。明治政府がはじめて正式に参加した万国博覧会であった。フェノロサは9月29日から10月4日まで、博覧会の特設美術館や市内の美術アカデミーに通った。9月30日に「研究対象は美術でなければならない」と研究ノートに書いた<ref name=hotta></ref>。仏像や浮世絵など日本美術に魅了され、「日本では全国民が美的感覚を持ち、庭園の庵や置き物、日常用品、枝に止まる小鳥にも美を見出し、最下層の労働者さえ山水を愛で花を摘む」と書いた、
日本美術の収集と研究を始め、狩野友信、狩野永悳に鑑定法を学んだ。フェノロサを狩野友信?に紹介したのは、当時、東京帝国大学学生の宮岡恒次郎?であった。
フェノロサは文部省と交渉して美術取調委員となり、1884年(明治17年)、文部省に入った岡倉天心を日本美術研究の通訳や助手として京都・奈良で古美術の調査を始めた。法隆寺夢殿〈国宝〉では、寺の僧侶ですら見ることの許されなかった秘仏を、約200 年ぶりに開帳した。現在国宝の救世観音菩薩立像?であった。古画の模写と鑑定のため日本画家の安藤広近と古美術の専門家柏木貨一郎を伴い、明治政府の書状や命令書を手にしていた。「美術品文化財の最初の正確なリスト」を作るためであった。

参考文献

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