縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、平安時代など日本古代史の出来事と検討課題の考察を行う。考古学の成果も取り入れ、事実に基づき、合理的な歴史の再構築を図る。

伽耶(かや)は日本列島の古墳時代に朝鮮半島の南部にあった国である。

概要

3世紀には弁韓?(弁辰)と呼ばれており、12国に分かれていたとされる。『駕洛国記』(『三国遺事』所収は伽耶の範囲を東は洛東江、西は智異山、北は伽耶山とする。現在の慶尚南道にのほぼ全域に相当する。
後にこれらの国を総称して、加羅、加耶、駕洛、伽耶などの名称となった。『日本書記』は「任那」と表記するが、『三国遺事』は主として伽耶と記載する。
伽耶は4世紀の後半においても、小国家分立のままであった。加羅諸国の中で有力な国は、金官国(金官加羅)、大加耶国(高霊加耶)、安羅国、多羅国、貞淳国などである。金官国と大加耶国は製鉄が盛んであり、連合の中心になった時期があり、最も有力な国であった。

新羅侵攻

4世紀末に任那加羅(釜山)は、倭と百濟に加担し新羅に攻め込んだ、新羅を救援した高句麗が倭兵を追撃し、任那加羅に従抜城を占領した(広開土王碑?)。

任那と伽耶

加羅諸国の一つ金官国の別称が任那であった。大和王権と外交関係を最初にもった加羅諸国が金官国であったので、日本では加羅諸国全体を任那と言うようになったようである。任那日本府という現地機関があったことは現在では否定されている。

古墳

加耶諸国は洛東江沿岸の平野部に広がり、宮殿を囲む丘陵に古墳や山城が構築された。金官伽耶の大成洞古墳群、大加耶の池山洞古墳群などが代表的遺跡である。

新羅への統合

百済の聖王が倭国の使者と伽耶諸国の代表を招いて開いた会議は『日本書紀』に記載される。562年には大加耶国が新羅?に攻め滅ぼされ、滅亡した。

参考文献

  1. 澤田 洋太郎(2006)『伽耶は日本のルーツ』新泉社
  2. 鈴木靖民,早乙女雅博,鬼頭清明,東潮,尹容鎮 (1998)『伽耶はなぜほろんだか』大和書房

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