春秋二倍暦説(しゅんじゅうにばいれきせつ)は日本の古代においては春夏、秋冬の半年を各々1年と数える暦であるから、現代の1年は当時は2年となっていたとの説である。
「二倍年暦説」、「一年二歳暦」、「春秋暦」とも言われる。
「二倍年暦説」、「一年二歳暦」、「春秋暦」とも言われる。
文帝に命じられて裴松之は三国時代の歴史書『三国志』の「注」を西暦429年に作成した(裴松之注『三国志』)。その中に「魏志東夷伝倭人条」が含まれる。そこに「その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す(其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀)」と書かれている。これは倭人は正月も知らず、四季も知らない、春に耕し、秋に収穫することで年数を数えているという意味である。これを、春の耕作と秋の収穫をそれぞれ1サイクルとして、今の半年を一年として数えていたと解釈する説である。
これには反論があり、「魏志東夷伝倭人条」の「その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す」は「春に耕し秋に収穫することをもって(合計)一年としている」と解釈できるからである。春から秋にかけて別の年になる(改元する)とは書かれていない。
半年暦、春秋二倍暦は根拠のない推測の域をでない。
また春秋二倍暦説が正しいとすると、ある年は春夏だけ(1月から6月)の出来事だけを書き、次の年は秋冬の出来事(7月から12月)だけを記載していなければならない。しかし、『日本書紀』の記事はそのようには書かれていない。したがって、春秋二倍暦説は成り立たない。
半年暦、春秋二倍暦は根拠のない推測の域をでない。
また春秋二倍暦説が正しいとすると、ある年は春夏だけ(1月から6月)の出来事だけを書き、次の年は秋冬の出来事(7月から12月)だけを記載していなければならない。しかし、『日本書紀』の記事はそのようには書かれていない。したがって、春秋二倍暦説は成り立たない。
春秋二倍暦説が正しいとすれば『日本書紀』の記載には2年連続で同じ季節は現れないことになる。現実にはそのような規則性は見られない。例をあげよう。
以下のように、応神元年と応神2年の両方に春の記事がある。また応神13年と応神14年の両方に春の記事がある。応神40年から応神41年の3年連続に春の記事がある。
すなわち2年連続で同じ季節が見られるから、春秋二倍暦説は成立しない。
応神紀の季節記載例
以下のように、応神元年と応神2年の両方に春の記事がある。また応神13年と応神14年の両方に春の記事がある。応神40年から応神41年の3年連続に春の記事がある。
すなわち2年連続で同じ季節が見られるから、春秋二倍暦説は成立しない。
応神紀の季節記載例
大王 | 年 | 季節 | 月 |
応神 | 1年 | 春 | 1月 |
応神 | 2年 | 春 | 3月 |
応神 | 13年 | 春 | 3月 |
応神 | 14年 | 春 | 3月 |
応神 | 39年 | 春 | 2月 |
応神 | 40年 | 春 | 1月 |
応神 | 41年 | 春 | 2月 |
応神紀に百濟記事との対応ができる個所が2つある。応神25年記事に百済の腆支王(日本書紀では「直支王」という)が薨去したとの記事がある。これは西暦414年である。
日本書紀の干支では294年であるから120年の違いがある。これは知られている2運の年代遡求である。応神3年には百済の辰斯王が即位した記事がある。西暦では385年である。
応神3年は日本書紀の干支では272年である。百済を基準とした年数の差は113年である。
すなわち応神25年と応神3年と百済歴とは西暦で7年しかずれていない。「二倍年暦説」が正しければ、ここに44年のズレがなければならない。よって「二倍年暦説」は成立しない。
日本書紀の干支では294年であるから120年の違いがある。これは知られている2運の年代遡求である。応神3年には百済の辰斯王が即位した記事がある。西暦では385年である。
応神3年は日本書紀の干支では272年である。百済を基準とした年数の差は113年である。
すなわち応神25年と応神3年と百済歴とは西暦で7年しかずれていない。「二倍年暦説」が正しければ、ここに44年のズレがなければならない。よって「二倍年暦説」は成立しない。
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