長屋王(ながやおう,676年?-729年?,)は奈良時代 の政治家である。長屋王の変により失脚し、自死を強いられた。
父親は竹市皇子?、母親は天智天皇の娘の御名部皇女?である。676年?(天武5年)に生まれた。704年(慶雲1年)、無位から正四位?となる。天武5年誕生説であれば、このとき29歳であるから、21歳で初叙される場合に比べれば大幅に遅れているから、特別に優遇されているとはいえなくなる。708年(和銅2年)11月、従三位に叙せられ、同月に宮内卿に任じられる。翌年709年(和銅3年)4月、式部卿に任じられる。前年に式部卿の下毛野古麻呂が死去したための異動と考えられる。式部卿は八省の中で人事考課、選叙、学校、朝廷儀礼を担当するため、特に重視されたポストである。35歳で式部卿となったことは、天武天皇の皇孫の立場が考慮された可能性がある。
715年(霊亀元年)妻の吉備内親王所生の男女を皇孫扱いとする勅が出された。716年(霊亀2年)正月に従三位から正三位に昇叙されたが、参議にはならなかった。718年(養老2年)、安倍奈良麻呂とともに大納言に任じられ、台閣の一員となる。参議や中納言を経ずに大納言となったのは、長屋王が初めてであった。721年(養老5年)、正月の正三位から従二位に昇叙され、右大臣に任じられる。721年(養老5年)10月、病床の元明太政天皇の病床に召され、倭がなく後は薄葬にすべしとの勅を受けた。723年(養老7年)佐保の宅に新羅使を招いた。724年(神亀1年)2月、従二位から正二位に昇叙され左大臣に任じられる。
724年(神亀1年)2月4日、聖武天皇が即位する。辛巳事件起こる。
729年(神亀6年)2月10日、長屋王の変が起こり、2日後に妻子とともに自害した。
715年(霊亀元年)妻の吉備内親王所生の男女を皇孫扱いとする勅が出された。716年(霊亀2年)正月に従三位から正三位に昇叙されたが、参議にはならなかった。718年(養老2年)、安倍奈良麻呂とともに大納言に任じられ、台閣の一員となる。参議や中納言を経ずに大納言となったのは、長屋王が初めてであった。721年(養老5年)、正月の正三位から従二位に昇叙され、右大臣に任じられる。721年(養老5年)10月、病床の元明太政天皇の病床に召され、倭がなく後は薄葬にすべしとの勅を受けた。723年(養老7年)佐保の宅に新羅使を招いた。724年(神亀1年)2月、従二位から正二位に昇叙され左大臣に任じられる。
724年(神亀1年)2月4日、聖武天皇が即位する。辛巳事件起こる。
729年(神亀6年)2月10日、長屋王の変が起こり、2日後に妻子とともに自害した。
長屋王については天武5年説と天武13年説がある。前者は『懐風藻』の「左大臣正二位年五十四」の記載は没年齢を表すと考えられている。後者は『公卿補任』神亀6年条「年三十六或は云三十六」から計算される。『懐風藻』は奈良時代成立のため、平安時代の『公卿補任』より信頼性が高いと想定される。また父母の年齢からして、天武5年説は無理がない(参考文献1)。
即位して間もない724年(神亀1年)に聖武天皇は生母で文武の夫人であった藤原宮子の称号を尊号「大夫人」とする勅旨を出した。3月になり長屋王らの太政官議政官組織が論奏をもって異議を唱え、公式令によれば宮子の称号は「皇太夫人」であると主張した。聖武はこの主張を受け入れ、表記では「皇太夫人」と記し、口頭では「大御祖」(おほみおや)とすることとして、二月の勅旨を撤回することになった(参考文献2)。しかし後年となる天平十三年二月十四日の勅で聖武は「願太上天皇、 大夫人藤原氏及皇后藤原氏、 皇太子已下親王及正二位右大臣橘宿祢諸兄等、 同資二此福一、 倶二向彼岸一」と記して撤回したはずの大夫人を使用している(参考文献2)。これは長屋王の死後のことなので、遠慮する必要がなくなったということであろうか。
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