縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、平安時代など日本古代史の出来事と検討課題の考察を行う。考古学の成果も取り入れ、事実に基づき、合理的な歴史の再構築を図る。

長屋王の変(ながやおうのへん, Conspiracy of Nagayao)は奈良時代 の729年(天平1年)2月に長屋王が失脚し、自死を強いられた政変である。

概要

事件の背景

長屋王天武天皇?の孫で、高市皇子?の第1皇子であった。皇位継承の可能性を持った人物であったが、文武天皇?の即位により傍系に追いやられた。
704年(大宝4年)、無位から正四位上?に直叙された。710年に式部卿となり、720年(養老4年)8月に藤原不比等?が薨去したあと、721年(養老5年)正月、長屋王は従二位・右大臣に叙任された。知太政官事?舎人親王とともに皇親勢力は藤原氏の上位を占めた。朝廷の最高責任者として三世一身法?の制定や「百万町歩開墾計画?」(食糧増産)など積極策を推進した。
有能で血筋もよいことで、藤原氏の存在がかすむような人物であった。
聖武天皇が724年(神亀元年)2月に即位すると、長屋王は正二位左大臣に昇進した。皇親政治家として政界を主導しながら、有力な皇位継承候補者でもあった。

事件の経過

729年(神亀6年)2月10日、左京の人従七位下漆部造君足(ぬかりべのみやつこきみたり)と無位中臣宮処連東人(なかとみのみやところのあずまびと)が朝廷にかけこんで、当時の中央政治の最高地位にある左大臣・長屋王が密かに「左道」を学び、国家を傾けようと図っている(「称下左大臣正二位長屋王私学左道、欲上傾国家」)と訴えた(続日本紀?‐天平元年二月辛未)。その夜式部卿藤原宇合?を長官とした六衛府の兵が長屋王の邸宅を取り囲んだ。翌日の2月11日、舎人親王、新田部親王?・多治比池守・藤原武智麻呂?らを派遣し、長屋王を糾問したとされるが、そのときの具体的なやりとりは伝わっていない。翌2月12日、王に命じて自殺させた。
王の室吉備内親王と皇子である従四位下の膳夫王・無位の桑田王・葛木王・鉤取王らは自刃し、97人が取り調べを受け、外従五位下の上毛野朝臣宿奈麻呂ら7人は、長屋王との交流が深かったことを理由に流罪に処せられた。2月13日、使者を派遣して長屋王および吉備内親王の屍体を生馬山に葬った。聖武天皇は勅を出し「吉備内親王には罪はない。喪葬令の例に準えて送葬せよ。」と伝える。告発者の漆部君足と中臣宮処東人に外従五位下を授け、封戸30戸、田10町を授けた。

後日談

長屋王を密告した中臣宮処東人と大友子虫がともに比寮に任じられて、囲碁を打っていたところ、長屋王の話題となったとき、誣告の真相を漏らしてしまった。大友子虫は長屋王に使えていた官人であった。大友子虫は東人を非難し、憤激して彼を切り殺したのである(参考文献1,p.261,276)。正史である『続日本紀』に誣告と書かれているので、長屋王の無実は明らかである。

事件の原因と首謀者

  • 天皇の関与
『兵防令』差兵条によれば20名以上の兵士を動員する際には、天皇の契勅が必要とされていたので、聖武天皇の許可または支持があったと考えられる。
  • 事件の原因
事件の原因は藤原氏の陰謀であるとの見方はほぼ定説となっている。しかし、なぜ長屋王を失脚させなければならなかったかは、様々な見解がある。
    • 皇位継承者の排除説
      • 権勢の座に近い藤原鎌足の血を引く藤原不比等ら藤原一族が、勢力を伸長してきていた長屋王を含む皇親系統の皇位継承を阻止するための陰謀(参考文献2)とする。その前後に長屋王及び吉備内親王所生の皇子が有力な皇位継承者に浮上した可能性がある(参考文献2)とされる。そうなると藤原一族は日陰に追いやられることになる。
    • 人臣皇后反対勢力排除説
      • 安宿媛(後に光明皇后)が皇后になることに異論を唱えていた(と推測される)長屋王を排除した可能性(参考文献1,p,62)。その証拠に長屋王の変から間もなく、安宿媛は夫人から皇后になっている。
    • 安積親王立太子阻止説
      • 聖武天皇の夫人である県犬養広刀自が安積親王を生んだため立太子から即位し次代の天皇となる可能性がでていた。そこで安積の立太子を阻止するため長屋王を排除したとの説。
    • 天皇の意を受けた謀略説
      • 辛巳事件などで長屋王に恨みを抱いていた聖武天皇が、藤原一族の協力を得て長屋王を排除しようとした。聖武天皇は直系ではあるが、生母が皇女でなかったから、天皇の権威に弱点があった。長屋王は皇女を妻である当時としては唯一の皇族であった。聖武天皇の皇太子が死んだことにより、聖武の子孫に皇位を継承させるためには、長屋王が邪魔になった。また、聖武天皇の皇太子の死亡は長屋王の呪詛があったと疑っていた。729年(神亀6年)2月15日の勅に「長屋王は心のねじれが表れ、悪事が露見し、法に触れたのでこれを除いた」と書かれている。天皇は勅により完全に犯罪者と断定しているのである。ここに聖武天皇の意思が現れていたとも考えられる。長屋王の弁明がどうであったかなどは記録されていない。そもそも左道で

参考文献

  1. 林陸郎(1961)『光明皇后』吉川弘文館

高重進(2007)「長屋王事件小考」高松大学紀要 (47), pp.1-34

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