縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、平安時代など日本古代史の出来事と検討課題の考察を行う。考古学の成果も取り入れ、事実に基づき、合理的な歴史の再構築を図る。

光明皇后(こうみょうこうごう,701年?-760年?, Empress Komyokogo)は奈良時代 聖武天皇の皇后である。光明子、藤三娘とも呼ばれる。

概要

出生

藤原不比等?と県犬養三千代の娘である。幼名は安宿媛(あすかひめ)。『元亮釈書』(十八)によれば、美しさが光輝くようであることから、光明子とも呼ばれたという。また幼少にして聡明とも言われた(参考文献1)。しかし、光明子を名乗り始めたのは、

天皇の妃

716年(霊亀2年)、聖武天皇が皇太子のとき16歳で妃となる。718年(18歳)第1子として阿倍内親王(のちの孝謙天皇)を出産する。727年(27歳、神亀4年)閏9月28日、基王(もといおう)を出産する。11月2日、基王を皇太子に立てた。成長すれば次の皇位継承が約束されるため、二代にわたる天皇の外戚となる藤原氏の目的が達成された。しかし、基王は1年をまたず、728年(神亀5年)8月、病が重くなった。聖武天皇は観世音菩薩177体、経177巻を作り、全僧侶に命じ、一日中読経させた。しかし、基王は9月13日になくなった。天皇にとっても、藤原氏にとっても予想外のことであった。このような中で[長屋王の変]]が起こる。

皇后となる

729年、28歳で初めての人臣出身の皇后となる。聖武天皇の母親・宮子も藤原不比等?の子であるため、聖武天皇とは甥と叔母の関係であった。藤原氏の子女が皇后になる先例となった。

業績

730年(30歳)孤児や病人を救済するための施設である悲田院施薬院?を設置した。
天皇と共に仏教を深く信仰し、皇后の勧めによって国分寺が創建されたと言われる。
父親の藤原不比等の邸宅を譲り受けて、法華寺(奈良市法華寺町)を建立した。
720年(養老4年)に亡くなった父の藤原不比等から、宮域近くの邸宅を受け継いだ光明皇后は、ここを皇后宮(皇后が住む宮殿)とした。734年(34歳)藤原氏の氏寺である興福寺に西金堂を造立する。阿修羅像をはじめとする八部衆の仏像を作らせた。
「続日本紀」には、745年(天平17年)、「旧の皇后宮を宮寺とす」とある。出土した「宮寺」の墨書土器がこうした史実を裏付ける(参考文献2)。
孤児・病者の救済を目的とした悲田院・施楽院を設けた。娘である阿倍内親王の立太子、および、その後の孝謙天皇としての即位後は、皇后宮職を紫微中台と改称し、甥の藤原仲麻呂?を長官に任じた。夫の死後四十九日に遺品などを東大寺に寄進し、その宝物を収めるための正倉院が創設された。754年(54歳)聖武天皇と娘の阿倍内親王とともに、鑑真より授戒を受ける。760年(60歳)崩御する。

唐の影響

光明皇后が取ったと推測される施策には唐の影響とみられるところが多い。「唐かぶれ」という評も見られる。どのようなところが唐の影響であろうか。

四字年号の採用

天平感宝(749年)、天平勝宝(749年-757年)、天平宝字(757年-767年)はいずれも光明皇后(光明皇太后)の時代に使われた年号である。それ以前はいずれも二字年号であった。それ以降でも天平神護(765年-767年)、神護景雲(767年-770年)があるのみという極めて稀な事例である。これは光明皇后がお手本とした則天武后の時代の「天冊万歳(695年)」、「万歳登封(695年-696年)」、「万歳通天(696年-697年)」などの例にならったものという指摘がある(参考文献3)。

頻繁な改元

天平21年(749年)4月14日に天平感宝元年と改め、その年のうちの7月2日、天平勝宝元年と改めた。1年のうちに二度の改元である。同じ出来事は則天武后の時代の中国に事例があり、垂拱5年1月1日に永昌元年と改元し、さらに同年11月1日を載初元年1月1日と改めた。載初元年9月9日を天授元年と改元した。

「維城典訓」の重視

759年(天平宝字3年)、律令格式とともに則天武后の著書である『維城典訓』を官吏の必読書とした(参考文献1)。具体的には、仁・義・礼・智・信の徳目を修め、貧・嗔・痴・姪・盗を慎み、 『維城典訓』と律令格式を読む者以外の史生以上の登用を禁じる方針を天下に告げている(参考文献4)。『維城典訓』を必読書としたのは、皇太后の発意か、上皇の方針か、天皇の独自路線かは定かでない。

紫微中台の設置

皇后の家政機関であった皇后宮職を紫微中台に衣替えし、令外官の行政組織を作った。これは規模が大きく、また実態は光明皇太后の全面的支援を受けて藤原仲麻呂指揮による政治・軍事組織であった。宮廷の護衛に加え、帝都の治安維持を担う近衛軍と、地方の治安維持にあたる諸国の軍団、防人など、藤原仲麻呂は全国の軍事力を総括する立場となった。紫微中台の権力は、太政官を上回るようになっていった。紫微中台は唐の玄宗皇帝の時代に中書省を改称した紫微省と則天武后の執政時代に尚書省を改称した中台を合わせた名称であり。、家政機関というだけでなく、公式の政治組織である太政官とは別個に国政機関を設置するものでありり、皇太后の命令(令旨)を実施し、兵力動かす権能を持ち、律令制を内部から崩壊させる存在ともなっていた。

国分寺の設置

「東大寺と天下の国分寺とを創建するは、もと太后(光明皇后)の勧めしところなり」(『続日本紀』)と書かれているように、国分寺は光明皇后のアイデアであったようである。741年(天平13年)2月14日、聖武天皇は詔して、天下諸国に対して国ごとに僧寺・尼寺を造り、それぞれに水田十町を施し、僧寺には二十僧を置いて「金光明四天王護国之寺」とし、
尼寺には十尼を置き、法華滅罪之寺とした。これは唐の制度の適用であった。新唐書(本紀巻4)に、唐の天授元年7月(則天武后の時代)、天下に『大雲教』を配布し、10月には州ごとに第雲光明寺を設置し、1000人の僧を得度させている。ただし国分尼寺の設置は日本独自の施策であった。

参考文献

  1. 松浦茂樹(2017):「聖武天皇と国土経営」53『水利科学』 No.358
  2. 光明皇后、藤原氏の一族…「宮寺」墨書土器
  3. 瀧川政次郎(1967)「紫微中台考」『法制史論叢第四冊 律令諸制及び令外官の研究』角川書店
  4. 木本 好信(2008)「淳仁天皇とその政治的権威試論」甲子園短期大学紀要 26(0), pp.1-11

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