藤三娘(とうさんじょう)は奈良時代 の聖武天皇の皇后である光明皇后の自称である。
藤原不比等には少なくとも四男五女がいたようである。正倉院に残る楽毅論の奥書に「藤三娘」の署名がある。これは藤原氏の三番目の娘という意味である(参考文献1)。
一説に男子を加えて三番目説、三女は誤りで実際は次女であろうとの説もあった。また署名は別筆によって加えられたのではないかという指摘がある。我が国では古来より貴顕が署名する例はほとんどなかったこと、本紙に別紙を継いでいること、皇后に即位して十五年も経てから「藤三娘」と署名していることなどを理由とする。
しかし、同じく光明皇后の直筆と言われる杜家立成と楽毅論を比較してみると、力強い書き方、「之」の字のスタイルの共通性が認められる。林陸郎によれば、自筆署名は尊重されなければならないため、次女説は採用できない。皇后の生まれた701年(大宝元年)には四人の男子はすでに生まれているので、男子を加えての三番目説は成立しない(参考文献1,p.25)とする。本文や『杜家立成雑書要略』との詳細な比較により、現在は皇后の真筆を疑う意見は皆無とされている(参考文献6)。
また光明皇后が発願した一切経の写経の奥書に「仏弟子、藤三女」と記している(天平15年5月11日)。
一説に男子を加えて三番目説、三女は誤りで実際は次女であろうとの説もあった。また署名は別筆によって加えられたのではないかという指摘がある。我が国では古来より貴顕が署名する例はほとんどなかったこと、本紙に別紙を継いでいること、皇后に即位して十五年も経てから「藤三娘」と署名していることなどを理由とする。
しかし、同じく光明皇后の直筆と言われる杜家立成と楽毅論を比較してみると、力強い書き方、「之」の字のスタイルの共通性が認められる。林陸郎によれば、自筆署名は尊重されなければならないため、次女説は採用できない。皇后の生まれた701年(大宝元年)には四人の男子はすでに生まれているので、男子を加えての三番目説は成立しない(参考文献1,p.25)とする。本文や『杜家立成雑書要略』との詳細な比較により、現在は皇后の真筆を疑う意見は皆無とされている(参考文献6)。
また光明皇后が発願した一切経の写経の奥書に「仏弟子、藤三女」と記している(天平15年5月11日)。
湯沢聡によれば、正倉院所蔵「楽毅論」の書者が、光明皇后と考える理由は、書の末尾に「藤三娘」の署款があること、756年(天平勝宝八年の東大寺献物帳(国家珍宝帳)に「皇太后御書」として「頭陥寺碑文并杜家立成一巻」と共に「楽毅論一巻」の記載があることによる(参考文献2)。
「藤三娘」は唐風の名乗りという。類例として、藤原弘経の子藤原輔相は藤六と号し、家集『藤六集』を編纂した(参考文献5)。山岸は弘経の六男であったことに由来する(参考文献3)とした。また藤原貞嗣の三男は藤原三藤であるが、「吉備、直世、三藤」の三番目の男子のようである。
- 林陸郎(1961)『光明皇后』吉川弘文館
- 湯沢聡(2000)「正倉院所蔵楽毅論について」書学書道史研究,巻10号 pp.81-91
- 山岸徳平(1971)『和歌文学研究』山岸徳平著作集,有精堂出版
- 平野 邦雄,坂本太郎(2010)『日本古代氏族人名辞典』吉川弘文館
- 坂口和子(1985)「藤六集解題」『新編国歌大観』第3巻,角川書店
- 飯島春敬(1974)「光明皇后御書楽毅論の疑いについて」『日本書道大系1 飛鳥・奈良』講談社
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