日本国号(にほんこくごう)は日本国の国内および対外的な名称である。
文献上における倭国の初出は『山海経?』である。
『山海経』は、劉歆(?〜23)が漢室にたてまつった際に伝わっていた32編を校訂して18編としたものとされる。「五蔵山経」「海外四経」「海内四経」「大荒四経」「海内経」の五部からなり、2世紀以前には成立していたとみられる。漢代より伝わる古代の地理書であり、春秋戦国期の内外の地理と、各地の山川やその土地の神々、動植物や鉱物資源、諸民族やその風俗等を解説する。その中に「倭」が登場する。
倭の北に蓋國があり、燕に倭は属していたとされる。蓋国は後の高句麗に当たるとの説がある。このころの朝鮮半島は北に燕、中央部に蓋國、南部に倭があったと解釈されるが、日本列島の倭国を指しているものではなさそうである。張莉(2019)は朝鮮半島に居た倭人を指すと解釈している。
『山海経』は、劉歆(?〜23)が漢室にたてまつった際に伝わっていた32編を校訂して18編としたものとされる。「五蔵山経」「海外四経」「海内四経」「大荒四経」「海内経」の五部からなり、2世紀以前には成立していたとみられる。漢代より伝わる古代の地理書であり、春秋戦国期の内外の地理と、各地の山川やその土地の神々、動植物や鉱物資源、諸民族やその風俗等を解説する。その中に「倭」が登場する。
- 山海經 第十二 海内北經
- 蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕
- 蓋國。鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に屬す。
倭の北に蓋國があり、燕に倭は属していたとされる。蓋国は後の高句麗に当たるとの説がある。このころの朝鮮半島は北に燕、中央部に蓋國、南部に倭があったと解釈されるが、日本列島の倭国を指しているものではなさそうである。張莉(2019)は朝鮮半島に居た倭人を指すと解釈している。
王充(27-97年)が編纂した思想書の「論衡?」に登場する。
- 巻八、儒増篇:周の時、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯艸を貢す
- 巻一九、恢国篇:成王の時、越常、雉を献じ、倭人暢草を貢す
中国正史における倭・倭人の初出は『漢書』地理志である。班固(32年―92年)が撰著となり、章帝の建初年間(76年−83年)に完成した文献である。
(大意)東夷の三方とは異なる従順なものがいる。ゆえに孔子が道の行われないことを悼み、海を渡り九夷に行きたいといったのはもっともなことだ。楽浪郡の海を渡った先に倭人がいる。百余国にわかれており、 定期的に贈り物を持ってやって来る国があった、と言われている。この百余国は漢代の国郡制の国とは異なり、国邑すなわち村のレベルを指しているようである(山島に依りて国邑を為す)。
- 然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。
- 樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云。
(大意)東夷の三方とは異なる従順なものがいる。ゆえに孔子が道の行われないことを悼み、海を渡り九夷に行きたいといったのはもっともなことだ。楽浪郡の海を渡った先に倭人がいる。百余国にわかれており、 定期的に贈り物を持ってやって来る国があった、と言われている。この百余国は漢代の国郡制の国とは異なり、国邑すなわち村のレベルを指しているようである(山島に依りて国邑を為す)。
古来からの日本国名・国号は「やまと」であった。古事記には「日本」の語は登場せず、すべて「やまと」と書かれている(参考文献2)。古事記には7か所で「夜麻登」が登場する。
小林敏男によれば、「やまと」はもともと地名であったとする(参考文献3)。「山門」(日本書記) 、「山処」、「山外」などの意味があるとされる。「やまと」の地に政治権力が確立されたことにより、国名となったと小林敏男は主張する。
魏志倭人伝には「邪馬台国」(ヤマト)が登場するため、これが最初の文献的記載となる。
そのほか、「耶麻謄」、 (魏志倭人伝)、とも表記される。また「倭」もヤマトと読む。
小林敏男によれば、「やまと」はもともと地名であったとする(参考文献3)。「山門」(日本書記) 、「山処」、「山外」などの意味があるとされる。「やまと」の地に政治権力が確立されたことにより、国名となったと小林敏男は主張する。
魏志倭人伝には「邪馬台国」(ヤマト)が登場するため、これが最初の文献的記載となる。
そのほか、「耶麻謄」、 (魏志倭人伝)、とも表記される。また「倭」もヤマトと読む。
倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし (古事記・祝詞)(参考文献5)(大意)やまとは国の中でもよい場所だ。青い垣根に重なって山が見え隠れする。やまとは美しい。
「日本」の国号は中国から与えられたものとの説がある。
『史記正義?』に「括地史にいう(略)、また倭国は西南大海の中に居る。凡そ百余国、京の南三万三千五百里にあり、案ずるに武后倭国を改めて 日本国と為す。」と書かれている。神野志隆光?は日本を国号とするには中国に受け入れられる必要があったと指摘する(参考文献4)。中国王朝(当時は則天武后?)が認めて初めて国号となるので、日本国号は中華的世界像の中で生まれたものであるとする。
日本側史料では弘安本『日本書記』に引かれる「延喜講記発題」に「□□(倭国)を改めて日本と為すこと唐国よりや、はた本朝よりや。説きて云う。唐より号くるところなり」と書かれ、日本側でも唐から授けられた国号との理解があった(参考文献4)。
『史記正義?』に「括地史にいう(略)、また倭国は西南大海の中に居る。凡そ百余国、京の南三万三千五百里にあり、案ずるに武后倭国を改めて 日本国と為す。」と書かれている。神野志隆光?は日本を国号とするには中国に受け入れられる必要があったと指摘する(参考文献4)。中国王朝(当時は則天武后?)が認めて初めて国号となるので、日本国号は中華的世界像の中で生まれたものであるとする。
日本側史料では弘安本『日本書記』に引かれる「延喜講記発題」に「□□(倭国)を改めて日本と為すこと唐国よりや、はた本朝よりや。説きて云う。唐より号くるところなり」と書かれ、日本側でも唐から授けられた国号との理解があった(参考文献4)。
日本書記?では「日本」国号の制定については何も語っていない。そこで中国・朝鮮史料に依拠することになる。
歴史的に史料に最も早く「日本」が登場するのは、『三国史記』新羅本紀?の698年?(孝昭王7年)3月条である。
次に727年?(神亀4年)の渤海?国使の国書を日本書記が引用する個所に「日本」が現れる。
813年?(弘仁4年)成立の『日本書記私記?』甲本(『弘仁私記』序)に、
『善隣国宝記?』は唐録を引用して、次のように記載する。
なお原文の天武天皇は文武天皇の誤りである。則天武后の長安三年は日本の大宝三年であるから、文武天皇七年である。
そのほか、続日本紀に粟田真人の帰国報告が掲載されており、唐から「何処の使人ぞ」と問われて、「日本国の使なり」と答えた。唐は「海の東に大倭国あり。これを君子国という。人民豊楽にして、礼儀敦く行わると聞く。今使人を看るに、儀容太だ浄し。豈信ならずや」と述べた。つまり、唐では遣唐使により初めて倭国が日本国と変わったと認識した。粟田真人が礼儀正しい人物であるから、その言葉を信用すると言ったのである。
結論的に、小林敏男は天武天皇10年3月の正史編纂にあたり公式に決定され、623年(天武天皇10年)の「浄御原令」で法的に公認されたと主張する(参考文献3)。さらに小林敏男は日本側での公式制定後、遣唐使の派遣に伴う則天武后の承認により日本国への改号は公式のものとなり、国際的に認知されたと述べている(参考文献3)。
歴史的に史料に最も早く「日本」が登場するのは、『三国史記』新羅本紀?の698年?(孝昭王7年)3月条である。
日本国使至る。王崇礼殿に引見す。 この記事に対応するのは文武天皇?二年であるが、続日本紀?には何も書かれていない。しかし、697年(文武天皇元年)に新羅使が来朝しているので、その返礼のため新羅に使いを派遣したと思われる。
次に727年?(神亀4年)の渤海?国使の国書を日本書記が引用する個所に「日本」が現れる。
伏して惟みれば大王天朝命を受けて、日本、基を開き、奕葉光を重ねて本枝百世なり。
813年?(弘仁4年)成立の『日本書記私記?』甲本(『弘仁私記』序)に、
日本国は、大東より東、万余里を去る、日は東方に出づ、扶桑を昇る、故に日本という。と「日本」国号の由来を説明している。
『善隣国宝記?』は唐録を引用して、次のように記載する。
天武天皇七年 『唐録』に曰く、則天の長安三年、日本国其の大臣朝臣真人を遣わし、来りて宝物を貢す。 因りていう。其の国日の出ずる所に近し。故に号して日本国という。
なお原文の天武天皇は文武天皇の誤りである。則天武后の長安三年は日本の大宝三年であるから、文武天皇七年である。
そのほか、続日本紀に粟田真人の帰国報告が掲載されており、唐から「何処の使人ぞ」と問われて、「日本国の使なり」と答えた。唐は「海の東に大倭国あり。これを君子国という。人民豊楽にして、礼儀敦く行わると聞く。今使人を看るに、儀容太だ浄し。豈信ならずや」と述べた。つまり、唐では遣唐使により初めて倭国が日本国と変わったと認識した。粟田真人が礼儀正しい人物であるから、その言葉を信用すると言ったのである。
結論的に、小林敏男は天武天皇10年3月の正史編纂にあたり公式に決定され、623年(天武天皇10年)の「浄御原令」で法的に公認されたと主張する(参考文献3)。さらに小林敏男は日本側での公式制定後、遣唐使の派遣に伴う則天武后の承認により日本国への改号は公式のものとなり、国際的に認知されたと述べている(参考文献3)。
- 張莉(2013)「『倭』『倭人』について」立命館白川靜記念東洋文字文化研究所紀要 (7), pp.33-52
- 太安萬侶『訂正古訓古事記 3巻』?
- 小林敏男(2010)『日本国号の歴史』吉川弘文館
- 神野志隆光(2016)『国号の歴史と由来』講談社
- 倉野憲司・武田祐吉(1958)『日本古典文学大系1・古事記・祝詞』岩波書店
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