稗田阿礼(ひえだのあれ、7世紀後半 - 8世紀前半)は倭国の舎人である。『古事記』の編纂者の一人である。
天武天皇?は阿礼が28歳の時に『帝皇日家継』や『先代旧辞』を暗誦させた。元明天皇?は阿礼が65歳の時、阿礼が没すると古伝が失われることを恐れ、太安万侶に阿礼の記憶を筆記させた。『古事記』の源流となる。
暗唱させたというのは、以前からの解釈であるが、井上によれば、「誦習は暗誦とは解釈できず、史料の解釈や読み方が分からなくなったので、内容や意味を稗田阿礼に理解させた」と解釈できる(井上他(2020))とする。『日本書紀』には稗田阿礼の記述はない。代わりに川島皇子に帝紀と上古諸事を記させたとある。しかし、川島皇子が『日本書紀』編纂事業に関わった形跡はない。記紀編纂の原点は天武朝にあるといえる。
暗唱させたというのは、以前からの解釈であるが、井上によれば、「誦習は暗誦とは解釈できず、史料の解釈や読み方が分からなくなったので、内容や意味を稗田阿礼に理解させた」と解釈できる(井上他(2020))とする。『日本書紀』には稗田阿礼の記述はない。代わりに川島皇子に帝紀と上古諸事を記させたとある。しかし、川島皇子が『日本書紀』編纂事業に関わった形跡はない。記紀編纂の原点は天武朝にあるといえる。
- (『古事記』大意)天皇は「諸家で傳えられている帝紀と本辞とは既に真実とは異なり多くの虚偽が加わっていると聞く。間違いを正さなければ、幾年もたたずに本旨が無くなってしまう。それは國家の経緯を記し、王が支配する根本である。そこで帝紀を筆記し、旧辞を後世に伝えたい」と言われた。その時稗田阿礼28歳の舎人は賢く、目で見たものを口で讀み傳え、耳で聞いたものはよく記憶した。そこで阿禮に帝紀と本辭とを讀み習わさえた。しかしながら時勢が移っても、まだ文字に記しなかった。
- (『古事記』 「序」原文) 於是天皇詔之「朕聞、諸家之所賷帝紀及本辭、既違正實、多加虛僞。當今之時不改其失、未經幾年其旨欲滅。斯乃、邦家之經緯、王化之鴻基焉。故惟、撰錄帝紀、討覈舊辭、削僞定實、欲流後葉。」時有舍人、姓稗田、名阿禮、年是廿八、爲人聰明、度目誦口、拂耳勒心。卽、勅語阿禮、令誦習帝皇日繼及先代舊辭。然、運移世異、未行其事矣。
稗田阿礼は男か女か。『古史徴開題記』で平田篤胤は稗田阿礼が天宇受売命(アメノウズメ)の末裔であり、女舎人であろうと指摘した。女性説は稗田氏が猿女氏の一族であり、天鈿女命の子孫からとする。民俗学者の柳田國男、国文学者の西郷信綱らもこれに賛同した。井上は天鈿女命はシャーマンの一族であり、猿女氏の女性は神事に従事していたとされる(井上光貞(2020))。しかし、舎人は男性の役職であるから、女性説は成り立ちにくい。
稗田阿礼は『帝皇日家継』や『先代旧辞』を読めたと解釈できるが、文字を読めたと解釈できるが、それではなぜ記憶した内容を自分で書き起こさなかった(筆記しなかった)のだろうか。通常は文字を読めるなら、書くことができると考えられる。
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