縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、平安時代など日本古代史の出来事と検討課題の考察を行う。考古学の成果も取り入れ、事実に基づき、合理的な歴史の再構築を図る。

武寧王(ぶねいおう、무령왕/무녕왕、462年 - 523年)は百済の第25代王である。

概要

在位は501年から523年。『三国史記』百済本紀・武寧王紀では牟大王(東城王)の第二子とされている。東城王が高官の加に殺害された後をうけて即位したとする。40歳であった。『三国史記』百済本紀・聖王紀によれば諱を斯摩とする。武霊王が生まれたとされる島の洞窟に説話が伝わる。
日本書紀によれば蓋鹵王?の子とされる。諱は日本書紀の記述「嶋」と読みが一致する。しかし史料間で親が異なっている。武寧王陵の発掘の結果、武寧王が東城王?三斤王?より年齢が高いことが明らかになっており、現在は『日本書紀』の記録の方が正しいと考えられている。
武寧王は中国「梁」から「寧東大将軍」の爵号を贈られ、百済の全盛期を築いた。

武寧王の生誕

武寧王の生年は武寧王陵墓誌から462年とされている。『日本書紀』では雄略6年(462年)であり、生年は一致している。百済は蓋鹵王?の8年である。
  • (『日本書紀』大意)雄略5年6月、加須利君(蓋鹵王)が云うように、妊婦は筑紫の各羅嶋(佐賀県可唐島と言われる)で子を産んだ。名付けて嶋君という。船で国に返した。これが後の武寧王である。
  • (『日本書紀』原文 雄略五年) 六月丙戌朔、孕婦果如加須利君言、於筑紫各羅嶋産兒、仍名此兒曰嶋君。於是軍君、卽以一船送嶋君於國、是爲武寧王。

即位の事情

  • (『日本書紀』大意)百済の末多王(第24代国王、東城王)は百姓に暴虐を働いたため、百濟の国人は王を排除して、嶋王を王に立て武寧王が即位した。
  • (『日本書紀』原文 武烈) 四年夏四月、是歲、百濟末多王無道、暴虐百姓。國人遂除而立嶋王、是爲武寧王。

死去

  • 継体17年(523年)5月、百済の武寧王が死去した。継体18年(524年)1月、聖明王?が即位した。
  • (『日本書紀』原文 継体)十七年夏五月、百濟國王武寧薨。十八年春正月、百濟太子明卽位。

武寧王陵

金銀で作られた多様な装身具、金銅製飾履、青銅鏡、中国製陶磁器など4,600点におよぶ多くの遺物が出土した。墓誌石の碑文から、被葬者は百済第25代国王武寧王とその王妃と特定された。三国時代の王陵の中で唯一被葬者が明らかになった墓である。公州宋山里古墳群の一つである武寧王陵は1971年7月、宋山里6号墳の排水工事の際に偶然発見された。武寧王陵と宋山里6号墳は中国南朝の影響を受けて作られた磚築墳でアーチ型の天井をなす石室と羨道を備えた構造である。塼という煉瓦を積み上げた「塼築墓」形式で、煉瓦の紋様から副葬品の種類や配置まで、中国の南朝・梁の形式を完全に踏襲している。

倭国との関り

武寧王と王妃の木棺は、コウヤマキ?(高野槙)という日本の九州にしか自生しない木材で作られていた。また『日本書紀』には武寧王(斯麻王)は倭国の佐賀県唐津市加唐島?で生まれたと記されている。武寧王陵の副葬品には銅鏡環頭太刀?翡翠?勾玉など日本との交流を示す数多くの品があった。

参考文献

  1. 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
  2. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店

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