縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、平安時代など日本古代史の出来事と検討課題の考察を行う。考古学の成果も取り入れ、事実に基づき、合理的な歴史の再構築を図る。

冊封体制(さくほうたいせい)は古代の東アジアにおいて、中国の王朝が周辺の諸国との間に取り結んだ関係と、それによって形成される国際秩序をいう。

概要

「冊」は中国皇帝が諸国の王に与える任命書である。「封」は土盛りで区画された領域を指す。「冊封」は中国皇帝が周辺の諸国のある領域の首長に任命するという意味である(河上麻由子(2019))。
西嶋定生によれば「中国の皇帝が周辺諸国の首長を冊封して、これに王・侯の爵位を授け、その国を外藩国として統属させる体制」とされる(西嶋定生(1997))。冊封体制の成立は漢から唐の間である。その内容は次の通りである。
  1. 中国皇帝に周辺諸国の君長が使節を派遣してさまざまな物資を献上する(朝貢)。
  2. 中国皇帝に周辺諸国の君長が朝貢時に臣下の礼をとり、服従する。
  3. 中国の皇帝が朝貢した周辺諸国の君長に王・侯の爵位を授ける。
  4. 中国の皇帝は朝貢した周辺諸国の君長の統治を承認する。
  5. 朝貢した国が冊封をうけると定期的な朝貢や中国の元号・暦(正朔)使用が義務化する。
周辺諸国の君長が使節を派遣するのは、中国皇帝の「徳」と「礼」を慕ってくるという前提であった。
中国側は返礼として豪華な物資を与え(回賜・下賜)自らの「徳」を誇示する。
メリットは、大国である中国とのあいだに平和的な関係を確保することが可能となる。
冊封体制は中国の王朝側と冊封を求める側との、体内的・対外的、政治的・社会的な事情によって形成される。山尾は学説上の意義を次のように示した(山尾幸久(1989),pp.50-53)。
  1. 学説の客観性
    • 東アジアの国際的・政治的関係を研究者の先入観や民族意識に影響されることなく、「官爵」授受の事実や朝貢によって客観的に把握できる。
  1. 日本民族の形成過程の学問的展望を示した。
    • 東アジア規模の歴史的な政治機構の中で、日本の国家の形成過程を共通の歴史的な場という視点を提供した。

倭国の冊封体制

倭国が中国と外交交渉をもった最初は、建武中元二年(57年)、倭奴国王が後漢の光武帝に朝貢したことである(『後漢書』東夷伝)。3世紀、魏に遣使した邪馬台国の卑弥呼は魏から親魏倭王の称号を与えられられた。5世紀の大和政権の倭の五王は次々と南朝の宋に遣使し、それぞれ倭国王の国号と朝鮮半島における軍事権の行使を認められた。それ以降は冊封体制から離脱し、遣隋使、遣唐使は何らかの地位を与えられる冊封関係とはいえない。
また倭国は定期的な朝貢や中国の元号・暦(正朔)の使用を行っていない。

批判

山尾は学説上の問題点を2つ挙げた(山尾幸久(1989),pp.53-54)。
  1. 王権間・国家間の政治的関係を中国王朝の制度的・形式的な礼制的銘文関係で説明する傾向があるが、理念的意味と王権間・国家間の客観的関係とは常に一致しているわけではない。
  2. 古代東アジアの政治的秩序を冊封体制では固定的に説明するが、実際には中国の周辺国に対する関係は歴史的段階、政治目的、相互の力関係、政治権力の史的な性質によって流動的である。それらの多様な要素を冊封体制だけで説明できるものではない。

参考文献

  1. 西嶋定生(1997)『秦漢帝国』講談社
  2. 西嶋定生(1962)「六-八世紀の東アジア」『岩波講座日本歴史 第2巻』岩波書店
  3. 西嶋定生(2002)『西嶋定生東アジア史論集〈第3巻〉』岩波書店
  4. 山尾幸久(1989)『古代の日朝関係』塙書房
  5. 河上麻由子(2019)『古代日中関係史』中央公論新社

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