塔の首遺跡(とうのくびいせき)は対馬北端の長崎県対馬市上対馬町にある弥生時代後期の墳墓群である。
対馬市の上古里川の西、比田勝港の北東、西泊湾を望む岬上の丘陵の稜線上に所在する稜線上に存在する箱式石棺群である。箱式石棺内に広形銅矛を副葬することは、他の遺跡には見られない特徴である。対馬を代表する有力者の埋葬施設である。
1971年長崎県教育委員会の委嘱で上対馬町教育委員会・長崎県教育委員会・別府大学・長崎大学・九州大学による調査が行われた。第1号石棺はすでに大部分が消滅していた。
第2号石棺は箱式石棺で厚い砂岩板石で築いている。内法で長さ1.5m、北幅0.45m、南幅03mである。
第3号石棺は、砂岩の板石材を多用し、両側壁に銅釧7(左腕4、右腕3)のほか、広鋒銅鉾?6が分けて置かれ、別に頭部に土器1、多数のガラス製小玉?、管玉が副葬されており広鋒銅鉾は時期確定の資料となった。広形銅矛が弥生後期前半には出現していたこと、対馬では広形銅矛を副葬する場合もあったこと、さらに弥生土器と朝鮮半島系土器との年代比較が可能になったことなど、注目すべき重要な副葬品である。敷石を配して整美な形態をとる。
第4号石棺は、最高所にある箱式石棺?である。稜線に直交し、内法の長さ1.95m、幅0.45mである。
第2号石棺は箱式石棺で厚い砂岩板石で築いている。内法で長さ1.5m、北幅0.45m、南幅03mである。
第3号石棺は、砂岩の板石材を多用し、両側壁に銅釧7(左腕4、右腕3)のほか、広鋒銅鉾?6が分けて置かれ、別に頭部に土器1、多数のガラス製小玉?、管玉が副葬されており広鋒銅鉾は時期確定の資料となった。広形銅矛が弥生後期前半には出現していたこと、対馬では広形銅矛を副葬する場合もあったこと、さらに弥生土器と朝鮮半島系土器との年代比較が可能になったことなど、注目すべき重要な副葬品である。敷石を配して整美な形態をとる。
第4号石棺は、最高所にある箱式石棺?である。稜線に直交し、内法の長さ1.95m、幅0.45mである。
- 銅釧1 - 正円に近い径7.3cm、幅0.7cm
- 水晶棗玉1
- ガラス玉1400点以上
- 土器3(足元に副葬)
- 灰白色の硬い焼きの楽浪・帯方郡系陶質の把手付壺1点
- 小型甕 1点
- 赤焼土器 1点
- 銅釧 - 楽浪郡の製品、左腕4点、右腕3点
- 広形銅矛2点 – 奴国産
- 小壺 – 頭部
- ガラス製小玉 8000点以上
- 管玉
- 歯冠 7点、20歳代女性を埋葬か。
- 銅矛 – 第1号は長さ89.1cmと長大、第2号は83.8cm。奴国産か。
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