白瑠璃高坏(はくるりのたかつき,Stemmed Glass Dish)は奈良県奈良市の正倉院に伝わる透明で黄味を帯びた高坏である。
本品は752年(天平勝宝4年)4月0日の大仏開眼会で東大寺に献納された品である(参考文献5,p.33)。しかし本品が宝物目録に入ったのは1904年(明治37年)であった。明治5年の壬申古器物検査でもリストに入っていない。東大寺の知られざる宝庫に長らく保管されていたが、1904年正倉院に何者かにより移されたと推測するほかはない。
坏部は広く浅く開き、その端は強く外反する。ラッパ上に広がる高台部は、ハの字状に開く。全体のバランスに優れている。金属製の吹竿の先に飴状に溶かしたガラスを付け、空気を吹き込んで膨らます宙吹き技法で作られる。坏部と脚部にあたる部分は別々に作られ、製作途中で融着して成形している。
当時の日本では本品を作る製作技術はなく、中国では鉛を多く含む色ガラスで小さな器が主流であった。大型のアルカリ石灰ガラスの器は西方地域から輸入していた。口縁を直角に稜を立てて折り曲げる技術は難しく(参考文献1,p.78,83,84)、本品は地中海東岸(シリア、イスラエル、エジプト)やメソポタミア(イラク)で6世紀から8世紀に製作されたと考えるのが妥当とされる(参考文献4)。由水常雄は大仏開眼供養に参列するために来日したイスラム僧によって、大仏に献納されたのではないかと推測している(参考文献1,p.79)。
2003年秋の「NHK 日曜美術館」では、「ガラスに泡が筋が多数あるため、作り方に稚拙な点があるから、日本製と考えられる」「坏と高台のつなぎ部分にも技術的な未熟さがみられる」と解説した。しかし由水常雄によれば、泡やバリはガラスを溶解する窯の状態や温度管理によるもので、古代の溶解技術では温度管理を精密に制御することは不可能であった。泡やバリがあるのは、技術的な稚拙さによるものではないとする(参考文献1,p.74)。さらに由水常雄は奈良時代以前のわが国には吹きガラス製品はひとつもないから、日本製ではありえないとする。白瑠璃高坏はガラス器技術として、最も難しい技術が使われており、10年20年の経験ではできないという(参考文献1,p.78)。通常のガラス器の作り方では、水平に広がる皿状の坏に外そりの縁をつくることはできないから、長い伝統のある産地でベテランの吹きガラス工人が多数いるところでなければ作れないという(参考文献1,p.78)。
ガラス製作の素人では何気なくみてしまうが、横に水平に広く伸びて、さらに先端が外側に反る形状は金属ならできても、ガラスで実現させるのは難しいことは想像できる。技術的な未熟さどころではなく、現代においてもベテランのガラス職人ができるかどうか分からないという難易度の高い品なのである。
ガラス製作の素人では何気なくみてしまうが、横に水平に広く伸びて、さらに先端が外側に反る形状は金属ならできても、ガラスで実現させるのは難しいことは想像できる。技術的な未熟さどころではなく、現代においてもベテランのガラス職人ができるかどうか分からないという難易度の高い品なのである。
- 登録名:白瑠璃高坏
- 倉番 : 中倉 76
- 用途 : 飲食具
- 技法 : ガラス
- 寸法 : 径29.0cm,高10.7cm,重1231g
- 材質・技法 : アルカリ石灰ガラス(無色)
- 参考文献
- 由水常雄(1994) 『正倉院ガラスは何を語るか』中央公論新社
- ドロシー・ブレイア・岩田糸子・吉田晃雄・上松敏明訳(1998)『日本の硝子史』日本硝子製品工業会
- 奈良国立博物館(2008)「正倉院展六十回のあゆみ」奈良国立博物館
- 奈良国立博物館(2021)「第73回正倉院展」仏教美術協会
- 松嶋順正(1980)「銘識より見た正倉院宝物」「正倉院紀要」2号
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