武寧王陵(ぶねいおうりょう, 무령왕릉)は、大韓民国忠清南道公州市にある古墳で、松山里古墳?群の中で7番目に発見された古墳である。百済第25代王の武寧王とその王妃の陵である
武寧王は第25代の百済の王で、501年に殺害された兄の東城王?の後を継ぎ40歳で即位した。松山里古墳の五号墳、六号墳の天井から水漏れがあったため、1971年6月29日から修理工事を始めた。地面の下から石炭の混じる硬い土層に当たり、煉瓦の角を掘り当てた。ほり下げると1971年 7月7日に初めて発掘された。盗掘されていない完全な状態で発掘された。
塼(せん)という百済式の煉瓦を積み上げた「塼築墓」である。羨道は幅1m、長さ2.9m、高さ1.45mのトンネルである。壁や天井の隙間から木の根が垂れ下がり、床面を蔽う。玄室は東西2.7m、南北4.2m、高さ2.93mである。煉瓦の紋様から副葬品の種類や配置まで、中国の南朝・梁の形式を完全に踏襲していた。東側に王の棺、西側に王妃の棺が置かれていた。武寧王と王妃の木棺は、コウヤマキという日本の九州にしか自生しない木材で作られていた。コウヤマキは日本では仏壇や墓の花として使われ、日本人にとって、コウヤマキは神聖な木とされている。武寧王の棺材は、樹齢300年以上の巨木で、コウヤマキの高さは30メートル、直径は1メートルほどであったと考えられる。コウヤマキは木質が非常に硬く湿気に強く最高の管材とされる。
棺の形や装飾からみると、これらの棺は百済で加工されたと考えられる。玄室の壁面には第6号分と同じような形の小窓とその下に蓮の花のような窓の形になったものを北の壁に1つ、東・西壁にそれぞれ2つを作って、小窓の中に灯りが入る。
棺の形や装飾からみると、これらの棺は百済で加工されたと考えられる。玄室の壁面には第6号分と同じような形の小窓とその下に蓮の花のような窓の形になったものを北の壁に1つ、東・西壁にそれぞれ2つを作って、小窓の中に灯りが入る。
武寧王陵から出土した遺物は108種、2,906点である。
- 棺
- 金製冠飾 国宝第154号
- 金製飛燕形笄
- 石獣
王と王妃の墓誌石2枚があった。53cm×41cm、厚さ5cm。青灰色の閃緑岩。墓誌石により、武寧王陵は三国時代の王陵の中で身元を確認できる唯一の墓となった。墓誌石に刻まれた武霊王陵の死亡年月は『三国史記』の記載と同じである。
(原文)
寧東大将軍の百済の斯麻王、年は六十ニ歳、癸卯年(523年)五月七日に亡くなり、乙巳年(525年)8月12日、登冠大墓に安置された。よって左のように文書を作成する。
(原文)
- 寧東大将軍百済斯
- 麻王年六十ニ歳癸
- 卯年五月丙戌七
- 日壬辰崩到乙巳年八月
- 癸酉朔十二日甲申安厝
- 登冠大墓立志如左
寧東大将軍の百済の斯麻王、年は六十ニ歳、癸卯年(523年)五月七日に亡くなり、乙巳年(525年)8月12日、登冠大墓に安置された。よって左のように文書を作成する。
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