縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、平安時代など日本古代史の出来事と検討課題の考察を行う。考古学の成果も取り入れ、事実に基づき、合理的な歴史の再構築を図る。

平致経(たいらのむねつね、)は平安時代の武人である。42歳で死去

概要

平致頼の四男である。藤原頼通の身辺に伺候していた武士である。伊勢・尾張を本拠とした伊勢平氏である。陸海の交通の要所・伊勢国を巡り、国香流・貞盛の息子・平維衡と父・致頼の代から争っていた。致経は、1013年(長和2年)に伊勢・益田荘を頼通に寄進した。
平致頼は左衛門尉(平安京を警護する門衛の長官)であった。武勇の誉れ高い武士であったが、しばしば乱闘事件を起こしていた。

東宮史生安行殺害事件

1021年(治安元年)に東宮史生(東宮の書記官)安行が殺害された。5月11日、逃亡した左衛門尉致経と弟・内匠允公親を追捕するため検非違使が伊勢に下向する。検非違使らは事前に彼らが神部に籠るならその旨を報告して指示を仰ぎ、他国に逃げ去るなら跡を追うよう別当から指示されていた(参考文献4,p.31)。検非違使らは伊勢で致経の郎党を逮捕する。詰問したところ、自白を得た。
「内匠允公親の仰せによりて、先年一条と堀川の橋の上で滝口信濃乃介というものを殺害した。また昨年致経の仰せによりて、東宮の史生安行を殺害した。兼ねてまた東宮亮惟憲朝臣を殺害しようと3日夜伺い求むと雖も、その便無きにより、遂げずして帰り去りをわんぬ。これ宮の下部等、亮の仰せによりて、致経宅を切り亡ぼすの所為によりてと云々。」(参考文献4,p.32)
その原因は、その前に町住人の負担となる東宮夫役を致経が拒否したことにあり、催促する東宮の下部に乱暴を働いたことにあり、その報復として致経の住居が破壊された為であった。報復は藤原道長の指示で行われたが、それを恨みとして、東宮史生や東宮亮の暗殺が実行された。
伊勢の検非違使は引き続き探索し、尾張の致経の住居と従者の宅が悉く焼失した。致経の従者が京上の申し出をしたので、検非違使が連行して帰京し、その言に従い、5月28日、致経の行方を知っていると見られる藤原維佐の宅に向かった。維佐の下女の話から、致経の「因縁」(縁者)である左近太夫中原到行が事件に関係していることが判明した。検非違使は故左大臣顕光の堀川院を訪ねた。この時点で官符「致経・公親等の輩を打ち進らすもの、その器に随いて賞を給ふべし」が七道諸国に出された。8月24日、致経は横川の法師静覚に匿われていたところを、検非違使が逮捕した。
事件の後の処分は不明であるが、同年10月1日、致経は「前左衛門尉」の肩書で東大寺に瑠璃壺(紺瑠璃唾壺)を施入した(東大寺別当次第)。左衛門尉の官職は解任されているが、命は助かっているようである。

和歌

和歌にも才能があり、「詞花和歌集」「武家百人一首」に1首が採録される。
君ひかす なりなましかは あやめ草 いかなる根をか けふはかけまし (左衛門尉平致経)

粗暴なのか?

高橋昌明はもとより粗暴だったとするが、経過を考えると、暴力を受けたことによる報復あるいは正当防衛で実力行使したようにみえるから、日頃から暴力的な人物なのかは疑問もある。この時代はもとより公正な裁判がないので、自営するしかない面もあるだろう。

瑠璃壺(紺瑠璃唾壺)

  • 追捕逃れ説
由水常雄によると、検非違使の追捕を逃れるため、平致経は東大寺に救いを求めたが、その手土産に瑠璃壺を持参した(参考文献1)。
  • 和解仲介の謝礼説
別説として、長元3年(1030)、平忠常の乱の追討使・平直方を助勢するため、安房守に任じられた維衡の子・正輔と伊勢で私闘した。東大寺は平維衡親子と平致経との間を調停し、平維衡親子は西を、平致頼系(長田)は東の海上交易、新田開発を主とする事になった。調停の礼として紺瑠璃壺を東大寺に寄進したとする。平維衡との長年の争いを東大寺が仲裁したとされる。しかし、高橋昌明は「長徳四年以来の平維衡系と平致頼系との対立は、史料上は長元3,4年の時間が最後であるが和解があったとするのは非現実的であるとしている。
  • 正倉院への組み入れ
瑠璃壺はその後、白河法皇の命令により、1117年(永久五年)に東大寺から正倉院宝物に組み入れられた。

考察

経過を時系列でみると、8月に検非違使に逮捕されて、その後、東大寺に助けを求め、東大寺が助命に何らかの支援をし、そのお礼として10月に紺瑠璃壺を東大寺に献納したのではないだろか。逮捕から献納まで2ヵ月ということは、時間的に逮捕の方が先なので、捕縛されていたとすれば、拘禁中に東大寺に救いを求めたことは考えられる。由水常雄説では逮捕を免れたように読めるから、経過と合わない。また平維衡と平致経の調停成立による謝礼説は、時間的に合わない。

今昔物語集

平致経は『今昔物語集』巻23の第14話に登場する。
(大意)
藤原頼道の全盛時代、明尊僧都という三井寺の僧が夜間祈祷をしていたところ、三井寺の往復の用事を言い遣った。藤原頼道は護衛に小心者と言われていた左衛門尉平致経をつけた。
僧都は三井寺への往復に徒歩で行くのかと問うたところ、構わないというので、心細かったが先に歩いて700メートルほど進むと、黒装束で弓矢を帯びた男が二人現れ、馬が用意された。騎馬の者二名が供に加わったので、僧都は頼もしく思った。さらに200メートルほど進むと、さらに黒装束で弓矢を持った者が二人現れる。これが何回か繰り返される。こうして賀茂川に出た時点で総勢三十人となった。三井寺で要件を済ませ、明尊僧都はすぐに帰途に就く。帰りは、それぞれが加わった場所で、今度は二人ずつ離れていく。戻ったとき僧都は「致経は不思議な男で郎党を手足のように見事に動かしておりまする」と報告した。勇猛で、大きな矢を射たので、世間では平致経を「大箭の左衛門尉」と呼んでいた。

巻23 本朝 左衛門尉平致経導明尊僧正語 第十四
(原文)
今昔、宇治殿の盛に御ましける時、三井寺の明尊僧正は、御祈の夜居に候けるを、御灯(みあかし)油参ざり。暫く許有て、何事すとて遣すとは人知らざりけり、俄に此の僧正を遣して、夜の内に返り参るべき事の有ければ、御厩に、物驚き為ず、早り為ずして、慥ならむ御馬に移置て、将参じて居て侍(さぶらふ)に、「此の遣に行くべき物は誰か有る」と尋させ給ひければ、其の時に左衛門尉平致経が候けるを、「致経なむ候ふ」と申ければ、殿、「糸吉(よし)」と仰せられて、其の時は此の僧正は僧都にて有ければ、仰事に「此の僧都、今夜三井寺に行き、軈て立返り、夜の内に此に返り来たらむずる。か様の共、慥に候べき也」と仰せ給れば、致経、其の由を承て、常に宿直)処に弓・胡録を立て、藁沓と云ふ物を一足、畳の下に隠して賤(あやし)の下衆(げす)男一人をぞ置たりければ、此れを見る人、「□細くても有る者かな」と思けるに、此の由を承るままに、袴の扶(くくり)高く上て、喬捜て置きたる者なれば、藁沓を取出して履きて、胡録掻負て、御馬引たる所に出会て立たりければ、僧都出て、「彼(あ)れは誰ぞ」と問に、「致経」と答ける。僧都、「三井寺へ行かむと為るには、何でか歩より行かむずる様には立たるぞ。乗物の無きか」と問ければ、致経、「歩より参り候ふとも、よもおくれ奉らじ。只疾く御ませ」と云ければ、僧都「糸怪き事かな」と思ひ乍ら、火を前きに灯(とも)させて、七八町許行く程に、黒ばみたる物の弓箭を帯せる、向様に歩み来れば、僧都此れを見て恐れ思ふ程に、此の者共、致経を見て突居たり。御馬候ふとて引き出したれば、夜なれば何毛とも見えず。履かむずる沓、提(ひさげ)げて有ければ、藁沓乍ら沓を履きて馬に乗ぬ。
胡録負いて馬に乗りける者、二人具しぬれば、憑しく思て行程に、亦二町許行て、傍より有つる様に、黒ばみたる者の弓箭帯したる、二人出来て居ぬ。其の度は致経此(と)も彼(かく)とも云はざるに、馬を引て乗て打副ぬるを、「此れも其の郎等也けり」と、「希有に為る者かな」と見程に、亦、二町許行て、只同様に出来て打副ぬ。此く為るを、致経、何とも云ふ事無し。亦此の打副ふ郎等共に云ふ事無くて、一町余、二町許行て二人づつ打副ひければ、川原出畢(いではつる)ときに卅余人に成にけり。僧都、此れを見るに、「奇異の為者(しわざ)かな」と思て、三井寺に行き着にけり。
仰給たる事共沙汰して、未だ夜中に成らぬ□□参けるに、後前に此の郎等共、打裹たる様にて行ければ、糸憑もしくて川原までは行き散る事無かりけり。
京に入て後、致経は此も彼も言はざりけれども、此の郎等共、出来し所々に二人づつ留りければ、殿、今一町許に成にければ、初め出来たりし郎等二人の限に成にけり。

馬に乗りし所にて、馬より下て履たる沓脱て、殿より出でし様に成て、棄て歩み去ば、沓を取て馬を引かせて、此の二人の者も歩み隠ぬ。其の後、只本の賤の男の限り共に立て、藁沓履乍ら御門に歩み入ぬ。
僧都此れを見て、馬をも、郎等共をも、兼て習し契たらむ様に出来る様の奇異(あさまし)く思えければ、「何しか此の事を殿に申さむ」と思て、御前に参たるに、殿はまたせ給とて御不寝(おほとのごもら)ざりければ、僧都、仰給ひたる事共申し畢て後、「致経は奇異く候ける者かな」と、有つる事を落さず申て、「極き者の郎等随へて候ける様かな」と申ければ、殿、此れを聞食て、「委く問せ給はむずらむかし」と思に、何かに思食けるにか、問はせ給事も無して止にければ、僧都、支度違て止にけり。
此の致経は平致頼と云ける兵の子也。心猛くして、世の人にも似ず。殊に大なる箭射ければ、世の人此れを大箭の左衛門尉と云ひける也となむ語り伝へたるとや。

宇治拾位物語

宇治拾遺物語 巻 11の11 (『古事談』四)(『十訓抄』第三の十一) 丹後守保昌下向の時致経父逢事
(大意)
藤原保昌が1021年(または2年後)妻の和泉式部を伴って任国の丹後国に向かった。与謝峠にさしかかると白髪の武士が路傍の木に立っていた。保昌の郎党はけしからん、なぜ下馬しないのか、おろしてやろうというと、保昌はあれはただ物ではないといい、郎党を静止して先に進む。二、三町すすむと、平致経が多数の兵を引き連れてやってきた。保昌に挨拶すると「老人がいましたか。あれは私の父の致頼です。きっと失礼なことがあったでしょう」といった。
(原文)
これも今は昔、丹後守保昌(たんごのかみやすまさ)、国へ下りける時、与佐の山に白髪の武士一騎あひたり。路の傍らなる木の下にうち入りて立てたりけるを、国司の郎等ども、「この翁、など馬よりおりざるぞ。奇怪なり。咎めおろすべし」といふ。ここに国司の曰く、「一人当千の馬の立てようなり。ただにはあらぬ人ぞ。咎むべからず」と制しているうち過ぐる程に、三町ばかり行きて、大矢の左衛門尉致経、数多の兵を具してあへり。国司会釈する間、致経が曰く、「ここに老者一人あひ奉りて候ひつらん。致経が父平五大夫に候ふ。堅固の田舎人にて子細を知らず。無礼(むらい)を現し候ひつらん」といふ。致経過ぎて後、「さればこそ」とぞいひけるとか。

参考文献

  1. 由水常雄(1994) 『正倉院ガラスは何を語るか』中央公論新社
  2. (1882)『今昔物語集 巻第23−14』近藤圭造(出版者)
  3. 経済雑誌社編(1897)『国史大系. 第17巻』宇治拾遺物語 巻十一1、経済雑誌社
  4. 高橋昌明(2011)『清盛以前』平凡社

坂東平氏系図

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