平塚川添遺跡(ひらつかかわぞえいせき)は、福岡県朝倉市にある弥生時代中期から古墳時代初頭の古代遺跡である。
全国的にも極めて貴重な多重環濠集落の跡である。「原の辻遺跡」と佐賀の「吉野ヶ里遺跡」とともに九州における3大環濠集落の遺跡とされる。久留米の北東、筑豊の南にあり、筑紫平野の北東に位置する。遺跡の西側に筑後川支流の小石原川が流れ、遺跡は小石原川流域に含まれる標高20メートル程度の微高地である。弥生時代中期前半に形成され、中期中頃に一時中断され、後期になって再び形成され、多重環濠を伴って拡大発展し、古墳時代初めまで存続した。古墳時代初めに環濠の大半は埋没し、建物、竪穴住居が造られている。それ以降の遺物は全く出土しない。
1990年(平成2年)に平塚工業団地の造成中に発見された。甘木市教育委員会と福岡県教育委員会により1991年(平成3年)8月から1993年(平成5年)5月まで発掘調査が行われた。多数の木製品が出土するなど、弥生時代の重要な大規模遺跡であることが明らかになり、発掘成果が最終日の14日に合同記者発表された。以後、関係機関、土地保有者等々の協力を仰ぎ、平成6年5月には「国指定史跡 平塚川添遺跡」となり、保存・復元事業が平成8年から開始された。平成13年5月、「平塚川添遺跡」は、復元された建物群や環濠を備えた「平塚川添遺跡公園」として一般公開された。環濠には当時(弥生後期)と同じように水が張られ、公園内には九州大学農学部井上晋助教授(植物分類生態学)の指導の元、当時の植生を推定再現した樹木、水生植物が植えられ、環濠内には「水すまし・ゲンゴロウ」などの水生動物も放された。実際に水まで張った大規模復元遺跡は我が国でも初めてのケースである。
約17haの範囲に多重環濠、竪穴建物跡約300軒、掘立柱建物跡約100軒が確認される。現在までに六重の環濠が確認されている。
中央部に内濠に囲まれた約2ヘクタールの楕円形の「中央集落」が存在する。住居のほか、中央部と北東隅に大型の掘立柱建物跡が検出された。
環濠の断面は殆どがU字形で、濠と濠の間隔は、1から4重目までは間隔が3mから5mである。4重目と5重目の間は約8mと広い。5重目と6重目の間は1mと狭くなっている。6重目の濠は最も規模が大きく、幅約23m、深さ2mになり、内側の掘り込みは垂直に近く、全体としてはV字形に深くなっている。この環濠の役割は、魏志倭人伝にいうところの「倭国大乱」に備えたものと推定される。
中央部に内濠に囲まれた約2ヘクタールの楕円形の「中央集落」が存在する。住居のほか、中央部と北東隅に大型の掘立柱建物跡が検出された。
環濠の断面は殆どがU字形で、濠と濠の間隔は、1から4重目までは間隔が3mから5mである。4重目と5重目の間は約8mと広い。5重目と6重目の間は1mと狭くなっている。6重目の濠は最も規模が大きく、幅約23m、深さ2mになり、内側の掘り込みは垂直に近く、全体としてはV字形に深くなっている。この環濠の役割は、魏志倭人伝にいうところの「倭国大乱」に備えたものと推定される。
内濠に囲まれた中央集落の外側に、七つの「別区画」と位置づけられた小集落が確認されている。そこからは、ガラス製菅玉、中国の貨銭、蛇紋岩製菅玉、多量の木製品、未使用木材などが発見されており、青銅器の鋳造工場跡と見られる遺構や倉庫と推定できる高床式建物跡なども発見されている。
環濠から採取された珪藻化石の完形殻の出現率が40%と低い。環濠堆積物上層は、沼沢
湿地付着生種群が優勢し、陸生珪藻を比較的多く伴い、止水性の珪藻化石も産出する。これらのことから、弥生時代終末の環濠は、定常的に水没していたとは考えにくく、しばしば干上がり乾燥することもあったと考えられる。
環濠から採取された珪藻化石の完形殻の出現率が40%と低い。環濠堆積物上層は、沼沢
湿地付着生種群が優勢し、陸生珪藻を比較的多く伴い、止水性の珪藻化石も産出する。これらのことから、弥生時代終末の環濠は、定常的に水没していたとは考えにくく、しばしば干上がり乾燥することもあったと考えられる。
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