味摩之(みまし)は、日本に伎楽を伝えたとされる 百済?からの渡来人?である。
日本書紀の推古20年(612年)に「百済人の味摩之が帰化し、自分は呉で伎楽を学んだので伎樂の楽部ができるといった。そこで桜井に少年を集め、伎樂を習わせた。そこで眞野首弟子と新漢濟文の二人が、楽部を学んだ。大市首と辟田首たちの祖先である(百濟人味摩之、歸化、曰「學于吳、得伎樂儛。」則安置櫻井而集少年令習伎樂儛。於是、眞野首弟子・新漢濟文二人習之傅其儛、此今大市首・辟田首等祖也」)と書かれる。
百済からの渡来人味摩之によって伝えられた伎楽は、平安時代初期頃まで寺院における法会で盛んに上演された。楽器伴奏のある無言の仮面劇であり、仏教音楽として法会や行道等に用いられた。
成瀬勝は、伎楽の故地は中国南方ではなく、韓半島にあったとする。帯方郡に呉性が多いことに着目し、味摩之は百済と高句麗の境界に位置する帯方郡の呉性をもつ中国系の芸能専門家に学んだのであろうとした(成瀬勝(1999))。
百済からの渡来人味摩之によって伝えられた伎楽は、平安時代初期頃まで寺院における法会で盛んに上演された。楽器伴奏のある無言の仮面劇であり、仏教音楽として法会や行道等に用いられた。
成瀬勝は、伎楽の故地は中国南方ではなく、韓半島にあったとする。帯方郡に呉性が多いことに着目し、味摩之は百済と高句麗の境界に位置する帯方郡の呉性をもつ中国系の芸能専門家に学んだのであろうとした(成瀬勝(1999))。
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