縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、平安時代など日本古代史の出来事と検討課題の考察を行う。考古学の成果も取り入れ、事実に基づき、合理的な歴史の再構築を図る。

有棺無槨(ゆうかんむかく)は魏志倭人伝に書かれた埋葬の方法である。

概要

魏志倭人伝に倭人が亡くなると棺に収め、槨は作らず封土(盛り土)で冢(ちょう)を作る、と書かれている。
  • (原文)其死 有棺無槨 封土作冢
これを有棺無槨という。魏志倭人伝の記述は箸墓古墳ではないと邪馬台国近畿説を否定する根拠の一つに上げられるのがこの「棺あって槨なし」である。
「棺あって槨なし」は北九州の墳墓に見られる慣習と言われ、近畿の古墳では「棺と槨があるとされる」。
しかしこれは2つの点で解釈が間違っている。
第一に「有棺無槨」は魏志倭人伝においては、一般の風俗を記述した個所に書かれている。卑弥呼の墓についての記述ではない。中国から渡航し、伊都国奴国での一般人の風俗の見聞をもとにして書いたのではなかろうか。
第二に「槨」とは棺を保護する外枠である。石室と石槨は異なる。石槨は棺との間にスキマがないものをいう。石室は棺を安置する部屋で、棺との間にかなりの隙間がある。「木槨墓」は、1〜5世紀にかけて韓国東南部、弁辰(弁韓)と伽耶で盛んに用いられた独特の墓制である。、日本ではホケノ山古墳が木槨を大量の川原石で覆う構造であるが、「木槨墓」はかなり少ない。
したがって「有棺無槨」は北九州に限らず、少数の例外を除けば、どの地域でも当てはまる風俗であるといえる。すなわち、魏志倭人伝の記述は箸墓古墳卑弥呼の墓を否定する根拠にはならなないし、無論、肯定する根拠にもならないのである。

三品彰英説

三品彰英?は『邪馬台国研究総覧』において、「棺」はうち棺とし、「槨」はそと棺であるとした。妥当な説である。三国志東夷伝韓伝にも「有棺無槨」が登場する。実際には弁辰(弁韓)、伽耶、新羅には木槨墓が多数あるから、「有棺無槨」は木槨墓が存在しないことを意味しない。朝鮮半島にもみられる箱式石棺は倭国でも見られるから、倭韓で共通の墓制があるとした。朝鮮半島では二世紀頃には木槨墓?が出現し、日本列島には北陸以西に木槨墓が散在したことが判明している(参考文献1)。古代中国では、棺と槨は死者の身体を土から隔て、腐敗を防ぐ役割があったという。三国志の編纂時点で倭人が厚葬ではなかったという認識があったと解釈できることが、有棺無槨の意味である(参考文献1)。卑弥呼の厚葬と倭人一般の薄葬を対比して書いていることが注目される。
つまり、三品彰英説からみても、「有棺無槨」の記述は王の死を記述したものではないことが分かる。

参考文献

  1. 門田誠一(2020)「魏志倭人伝の葬送記事にみる棺槨の意味」鷹陵史学46,pp. 71-102

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